ほっぷ すてっぷ

精神保健福祉士、元新聞記者。福祉仕事と育児で「兼業」中。名古屋在住の転勤族。

森嶋通夫(1994)『思想としての近代経済学』

2012-06-02 17:12:53 | Book

経済学は、もしくは経済学の思想は非常に現実に役に立つものだ。
本書ではリカードからケインズに至るまでの7、8人の経済学者を
取り上げ、彼らの人生や思想、主な貢献と彼ら同士のつながりなどを
紹介する。ケインズは何がすごかったのか、それは彼に至るまでの
経済学者が極端な「セイの法則」(供給が需要を作る)の仮定から抜け出せず、
ケインズはそれを正したところだと展開する。
「耐久財」市場ではセイの法則が仮定出来ない一方で、
世の中には耐久財の占める割合がどんどんと大きくなっていった中で、
これは決定的に重要なことだった。

といってもこういった理論の論点のみを書いているわけではなく、
彼らが見た世界、これに引きずられる形で読者も「社会」を俯瞰的に
分析する癖を求められていき、なるほどと腑に落ちてしまう経験が
なんとも心地よい。著者の視点が洗練されていて、日本語がうまいのも
ひとつの理由だと思う。たとえば、ウェーバーの官僚制について書いている
ところでは、機械化された経済の中では企業労働者の能力(限界生産性)を
査定することは難しく、年次に応じた評価、これに応じた地位の上昇を
約束することで企業も官僚化する。
日本の企業が特別官僚的だという考察での彼の意見は、説得力がある。

「財閥追放は日本経済の『民主化』という名の弱体化のために行われたが、
結果は意図と逆のものになった。財閥家族は株の所有を制限され、
自分の会社の役員になることも禁じられた。追放された株は、同じ
財閥系だったほかの会社が所有し、空位になった役員席は「官僚職員」の
昇進によって埋められて、すべての旧財閥会社の社長、副社長の席は
「官僚職員」の占めるところとなった。その上、法人大株主を代表するのもこのような
官僚職員上がりの社長たちであったから、彼らは会社の経営陣だけでなく、
株主会議をも支配して配当率は低く抑えられた」

このほか、はっと気づかされた部分を備忘録的に書いておきたい。
数学者ノイマンは、もちろん本書で主人公として登場したわけではないが、
彼の言葉の引用がある。
「社会科学の場合、実験は不可能であるから、合理的思考と実験の二つが社会科学の
柱であることはない。ノイマンは経験の源泉を、実験でなく現実の観察の求める。
現実の観察が不十分だと、数学的思弁だけが近親繁殖して、結局その学問は
退化してしまうとノイマンは考える。ウェーバーの社会科学方法論は、このノイマンの
精神に合致するような形で展開されている」・・・

例えば日々ニュースをチェックすることも、世の中の「観察」だ。
当たり前のことだが、自分にはタイムリーな指摘だった。

ハイルブローナーの『世俗の思想家たち』で読んだ誰もが思うのと同じで、
この本を読んでもまず、これら経済学者が自分の立ち位置、経済的環境、
家族の影響などから多分に影響を受けていることに興味を覚えるだろう。
著者が意識的に、「彼にはマルクスやウェーバーのように、2、3年失業する余裕はなかったから」
などと紹介するからなおさらだ。
また、学者という生き物が、「生涯で成した仕事を系統だてて整理したがるもの」だという
視点も面白い。
ウェーバーは政治家になりたかったが、紆余曲折を経て学者の仕事を残し、
情熱のままに研究したテーマを系統だてるのに苦労した。
ワルラスは研究当初から「規範的」研究と、「実証的」研究のどちらも手掛けるつもりで、
まずは実証的研究で動学的均衡の問題で実績を残したが、
彼の信念でもあった「土地の国有化」を説得するべく理論は後世に残せなかった。

他のだれもが明らかにしていないことを明らかにしなければいけない学術世界にいると、
「個性的」になりやすいのかもしれない。
たとえ人生の最後に系統化するのが難しいとしても、まずは「仕事」を残すことが
大事だ、と森嶋氏に言われている気がした。

ちなみに、今回のこの本で最も面白かったのは社会主義の記述だ。
というのも、現在社会主義の国にいるから、今まで以上に社会主義の国の分析、
どういう帰結がありうるのかという意見に敏感だった。
これについてはまた別に書くことにしたい。

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