岐阜県の飛騨市神岡町。高山市から富山県に抜ける通称ブリ街道の
途中にある山間の町だ。
家々を見渡せる高台に、「神岡城」がある。眼下には水量も
多く、涼しげに流れる高原川。この城は、数百年前から残るものでもなければ、
町などが復元したものでもない。
三井金属鉱業株式会社が、犬山城などを模して建てた。
中は郷土資料館で、甲冑や城跡から出現した土器などが展示してある。
隣には鉱山資料館。明治元年に建てられたと言う立派な民家が移築され、
中に農機具などを置いた民芸資料館もある。
この二つも、三井金属鉱業が創業100周年の記念事業として
作ったり移築したりしたものだ。
昭和45年、1970年。イタイイタイ病の訴訟提起が1968年だから、
裁判真っ最中のころである。
神岡町は、「東洋一」と言われた亜鉛、鉛などを産出する神岡鉱山があり、
それを明治時代から事業化した三井金属鉱山が築いた城下町だ。
そして、高原川にカドミウムを流し続け、この川が合流する
神通川の下流域で、イタイイタイ病を発生させた原因企業で、
この神岡町がまさしく発生場所だ。
■神岡鉱山
江戸時代初期に、才覚のある飛騨の国の家臣(茂住氏)がいたそうで、
彼が鉱物の産出に力を入れたらしい。
そのおかげもあり、高山は栄え、財政が苦しかった江戸幕府が
直轄地にしたほど。
高山、飛騨の現在の市街地からは、車でそれぞれ1時間、20分ほど
は離れており、
おそらく鉱山がなければ集落は出来なかっただろう、と思われる場所。
前近代的な手法で続いていた地場産業を、1874年に三井組が入ってきて、
株式会社化もして、事業を近代化させた。
■三井金属鉱業の時代
資料館の人の話によると、神岡の人はみな、三井金属の従業員か、その家族だった。
全国的な炭鉱の閉山に伴い、九州から三井グループの配置転換で
来た人も多いという。
最盛期には、人口2万7000人。現在の3倍にあたるという。
福利厚生も素晴らしく、「社宅には他の地域にはない水洗トイレがあって、
東京に進学した子供たちも鼻が高かった」。
そうして社宅でお金をため、神岡に家を建てた人たちが大勢いた。
■イタイイタイ病?
亜鉛、鉛の精製の課程でカドミウムが出てくる。それは鉱山資料館にも
あった。
しかし、説明図中のカドミウムから矢印は出ていない。
資料館で、カドミウムの話もイタイイタイ病の話も一切出てこない。
資料館の人の話では、「50年も前の話だしね・・・」とのこと。
(といってもこの人たちが企画内容を決めているのではなく、
一切を三井鉱山が作り、維持や入場料の徴収を町だかどこかが
やっているということだと思うが。)
今は分社化して「神岡鉱業株式会社」という三井金属の100%
子会社になっている。
2001年(意外と最近!)に鉱山を閉山してから、
貴金属や機械に使われている鉛のリサイクルをメインの事業に
しているようだ。
http://www.mitsui-kinzoku.co.jp/project/kankyo/kamioka/index.html
■公害の原因地と被害地
街道を富山方面に抜けて帰った。
途中の富山県旧細入村の道の駅で、鮎の塩焼きを焼いてるおっちゃんと話した。
神岡町とは車で20分ほどしか離れていないところだ。
当たり前といえば当たり前だが、イ病の認識が全く違う。
神岡の人>
「公害は昔のこと」「最近、富山で(イ病)の資料館を作るというが、
まああんまり面白くないよね。歴史の教訓を、ということみたいだけど」
「(三井鉱山の)あのころはよかった。煤塵で肺をやられた人もいたけど、
いい時代だったなと思うよ」
富山・細入の人>
「ここらへんは、川の水を田んぼに引かないしイ病はなかった。だけど
神岡と仲はよくない。働きに行った人もたくさんいるけど、みんな
早く死んだよね」「今も年に一度は、行政かなんかが変なことしてないか
あの工場に立ち入るんだよ」
「すぐ近くにダムがあるけど、その底には有害なものを
いっぱい含んだヘドロがあって、未だに放出できない。あふれたら
大変なことになる」
「イ病の資料館が出来るのは、いいことだと思う」
原因地と被害地が同じだった四日市と比べてしまう。
原因地と被害地が県をまたぐイ病の場合、被害者側は声も上げやすく、
行政も保護しやすい。
もし被害地が岐阜だったら、大いに税金を納め、城まで建ててくれる三井金属に
厳しい態度で臨めただろうか。
同じ県民である神岡の人たちがこれだけ恩恵を受けていて、
被害者たちは大きな声で責められただろうか。
富山の被害者団体がしっかりと組織されており、資料館を何億も掛けて新設する
に向け、動いていることは、声を出して議論しやすい被害構図だったことが
大きく関係していると思う。
(ほかにも、病気の性質とか、被害地が農地だったこととか、いくつかあるのだがまた今度の機会に)。
神岡には今、東大の小柴さんがノーベル賞を受賞した研究「ニュートリノ」の
実験施設「カミオカンデ」が鉱山の坑道跡にあり、ほかにも東北大の
実験施設などがあるらしく「宇宙科学の町」としてPRしているようだ。
年に一度、廃止した坑道の見学とそれらの研究説明をあわせたツアーを
企画していて、今年は来週に行われるとのこと。
これだけのどかで美しい自然が間近にあるのに、
それらへの言及は見なかった。
企業が手のひらを返したように企業イメージや戦略を変えるように、
その土地のアピール内容が変わってしまうのは少し寂しいように思った。
途中にある山間の町だ。
家々を見渡せる高台に、「神岡城」がある。眼下には水量も
多く、涼しげに流れる高原川。この城は、数百年前から残るものでもなければ、
町などが復元したものでもない。
三井金属鉱業株式会社が、犬山城などを模して建てた。
中は郷土資料館で、甲冑や城跡から出現した土器などが展示してある。
隣には鉱山資料館。明治元年に建てられたと言う立派な民家が移築され、
中に農機具などを置いた民芸資料館もある。
この二つも、三井金属鉱業が創業100周年の記念事業として
作ったり移築したりしたものだ。
昭和45年、1970年。イタイイタイ病の訴訟提起が1968年だから、
裁判真っ最中のころである。
神岡町は、「東洋一」と言われた亜鉛、鉛などを産出する神岡鉱山があり、
それを明治時代から事業化した三井金属鉱山が築いた城下町だ。
そして、高原川にカドミウムを流し続け、この川が合流する
神通川の下流域で、イタイイタイ病を発生させた原因企業で、
この神岡町がまさしく発生場所だ。
■神岡鉱山
江戸時代初期に、才覚のある飛騨の国の家臣(茂住氏)がいたそうで、
彼が鉱物の産出に力を入れたらしい。
そのおかげもあり、高山は栄え、財政が苦しかった江戸幕府が
直轄地にしたほど。
高山、飛騨の現在の市街地からは、車でそれぞれ1時間、20分ほど
は離れており、
おそらく鉱山がなければ集落は出来なかっただろう、と思われる場所。
前近代的な手法で続いていた地場産業を、1874年に三井組が入ってきて、
株式会社化もして、事業を近代化させた。
■三井金属鉱業の時代
資料館の人の話によると、神岡の人はみな、三井金属の従業員か、その家族だった。
全国的な炭鉱の閉山に伴い、九州から三井グループの配置転換で
来た人も多いという。
最盛期には、人口2万7000人。現在の3倍にあたるという。
福利厚生も素晴らしく、「社宅には他の地域にはない水洗トイレがあって、
東京に進学した子供たちも鼻が高かった」。
そうして社宅でお金をため、神岡に家を建てた人たちが大勢いた。
■イタイイタイ病?
亜鉛、鉛の精製の課程でカドミウムが出てくる。それは鉱山資料館にも
あった。
しかし、説明図中のカドミウムから矢印は出ていない。
資料館で、カドミウムの話もイタイイタイ病の話も一切出てこない。
資料館の人の話では、「50年も前の話だしね・・・」とのこと。
(といってもこの人たちが企画内容を決めているのではなく、
一切を三井鉱山が作り、維持や入場料の徴収を町だかどこかが
やっているということだと思うが。)
今は分社化して「神岡鉱業株式会社」という三井金属の100%
子会社になっている。
2001年(意外と最近!)に鉱山を閉山してから、
貴金属や機械に使われている鉛のリサイクルをメインの事業に
しているようだ。
http://www.mitsui-kinzoku.co.jp/project/kankyo/kamioka/index.html
■公害の原因地と被害地
街道を富山方面に抜けて帰った。
途中の富山県旧細入村の道の駅で、鮎の塩焼きを焼いてるおっちゃんと話した。
神岡町とは車で20分ほどしか離れていないところだ。
当たり前といえば当たり前だが、イ病の認識が全く違う。
神岡の人>
「公害は昔のこと」「最近、富山で(イ病)の資料館を作るというが、
まああんまり面白くないよね。歴史の教訓を、ということみたいだけど」
「(三井鉱山の)あのころはよかった。煤塵で肺をやられた人もいたけど、
いい時代だったなと思うよ」
富山・細入の人>
「ここらへんは、川の水を田んぼに引かないしイ病はなかった。だけど
神岡と仲はよくない。働きに行った人もたくさんいるけど、みんな
早く死んだよね」「今も年に一度は、行政かなんかが変なことしてないか
あの工場に立ち入るんだよ」
「すぐ近くにダムがあるけど、その底には有害なものを
いっぱい含んだヘドロがあって、未だに放出できない。あふれたら
大変なことになる」
「イ病の資料館が出来るのは、いいことだと思う」
原因地と被害地が同じだった四日市と比べてしまう。
原因地と被害地が県をまたぐイ病の場合、被害者側は声も上げやすく、
行政も保護しやすい。
もし被害地が岐阜だったら、大いに税金を納め、城まで建ててくれる三井金属に
厳しい態度で臨めただろうか。
同じ県民である神岡の人たちがこれだけ恩恵を受けていて、
被害者たちは大きな声で責められただろうか。
富山の被害者団体がしっかりと組織されており、資料館を何億も掛けて新設する
に向け、動いていることは、声を出して議論しやすい被害構図だったことが
大きく関係していると思う。
(ほかにも、病気の性質とか、被害地が農地だったこととか、いくつかあるのだがまた今度の機会に)。
神岡には今、東大の小柴さんがノーベル賞を受賞した研究「ニュートリノ」の
実験施設「カミオカンデ」が鉱山の坑道跡にあり、ほかにも東北大の
実験施設などがあるらしく「宇宙科学の町」としてPRしているようだ。
年に一度、廃止した坑道の見学とそれらの研究説明をあわせたツアーを
企画していて、今年は来週に行われるとのこと。
これだけのどかで美しい自然が間近にあるのに、
それらへの言及は見なかった。
企業が手のひらを返したように企業イメージや戦略を変えるように、
その土地のアピール内容が変わってしまうのは少し寂しいように思った。
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