Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

沖縄で《少年時代》に思うこと

2009年06月18日 | 家・わたくしごと
 ゼミの学生が教育実習の研究授業で、井上陽水の《少年時代》をとり上げた。偶然にも二年前の研究授業でもこの曲が取り上げられ、2007年の6月14日のブログにそのときのことが書かれている。この時は、少年時代という過去を、まだ10代半ばの高校生がノスタルジックに振り返ることができるのだろうかという視点から綴ったのだが、今回はこの曲に描かれる季節の「移ろい」について思うことを書いてみたい。
 《少年時代》の歌詞を真面目に理解しようとすると、相当に難解であることに気づく。読み手ごとにさまざまな解釈を可能にするし、陽水の造語も手伝って、多様な解釈を生む。この歌詞の中には、「四季の移ろい」が描かれている。しかし、私は授業を聞きながらふと、沖縄で育った高校生たちはこうした「移ろい」を理解できるのだろうか、と考えてしまった。
 歌詞の最初に出てくる「夏が過ぎ、風あざみ」の中の「アザミ」という花について、私のゼミ生が高校生たちに尋ねたが、誰一人「アザミ」を知らなかった。当然のことながら、沖縄では一般的な花ではないわけだから仕方が無い。初夏から初秋にかけ夏を挟んで本土のあちこちに咲くアザミは、ある意味、夏を中心にその前後の季節を繋ぐような役割を果たしているように私には思えるのだが、しかしアザミを知らなければ、その種がタンポポのように風にのって空に舞うこともしらないでこの歌をうたうことになる。
 沖縄には本土のような四季はない。しかしそれぞれの季節に本土に行けば、四季を感じることは可能だ。たとえば沖縄に雪は降らなくても、冬に雪国に行けばその感覚を実感することができよう。しかし、それぞれの季節は体験できても、その「移ろい」を感じるためには、そこに長期間滞在しなくてはならない。もし四季すべての「移ろい」ならば、最低1年は必要である。しかし、この少年時代の理解に必要なのはそんな四季の「移ろい」のような気がするのだ。生徒達がこの曲の歌詞を個々人が解釈して歌うためには、やはり沖縄にはない季節感を体験すること、そしてもう少し大人になることが必要なのかもしれない。