徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

嗚呼!北の富士さん

2024-11-21 15:28:13 | スポーツ一般
 元横綱北の富士さんが亡くなった。テレビで訃報を聞いてまず思い出したのは、若手の頃の屈託ない笑顔だった。あれは昭和40年1月、明治神宮でのことだった。その日、大学1年だった僕は、新横綱佐田の山の奉納土俵入りが行われることを知って、電車通学の途中、原宿で下車し明治神宮へ向かった。本殿前で待っていると、横綱佐田の山、太刀持ち北の富士、露払い金乃花が行司とともにやって来た。皆緊張の面持ちだったが、贔屓筋からの声でもかかったのか、北の富士だけが破顔一笑、大物ぶりを感じさせた。
 柏鵬時代が終盤にさしかかった頃だったが、彼の相撲人生は順風満帆ではなかった。所属する出羽の海部屋は佐田の山が親方である出羽海の娘と結婚して婿養子となり、出羽海部屋を継承することが決まっていたが、先代出羽海親方が生前、後継者に指名していた九重(元横綱千代の山)が不満を抱いて、独立を申し出た。分家独立不許という不文律があった出羽一門は、これを許すかわりに九重とその弟子北の富士(当時大関)らは破門となった。救いの手を差し伸べてくれた高砂親方(元横綱朝潮)のもとで高砂系の九重部屋として再出発する。部屋経営に困難が続き、弱小部屋の悲哀をかこっていた九重部屋も、昭和42年3月に北の富士が初優勝し、号泣する姿が相撲ファンの共感を呼んだ。
 昭和45年1月に玉乃島(後玉の海)との同時昇進で横綱になるのだが、玉の海は翌年10月、27歳の若さであっけなく世を去ってしまう。良きライバルであり親友でもあった北の富士が号泣する姿はテレビ視聴者の涙を誘った。
 昭和49年に引退後は、九重部屋を継いで千代の富士、北勝海の二人の横綱を育て上げたことは今さらいうまでもない。

 北の富士さんは喜怒哀楽のハッキリした人間臭い相撲人だったと思う。

 謹んで哀悼の意を表しますとともに ご冥福を心よりお祈り申し上げます(合掌)


昭和40年1月、明治神宮において横綱昇進の奉納土俵入りをする横綱佐田の山、太刀持ち北の富士、露払い金乃花

谷川俊太郎さんの訃報

2024-11-19 18:48:09 | 文芸
 久しぶりに風邪で寝込んでテレビを見ていたら、谷川俊太郎さんの訃報が流れた。いろいろ書きたいこともあるが、今日はとりあえず、これまでブログに書き込んだ谷川俊太郎さんに関する話題を再掲することにした。

 心よりお悔やみ申し上げます どうか安らかにお眠りください

◇43年目の真実「東京オリンピック」(2007.6.19)
 17年前、ネットで東京オリンピック1964について調べていたら、南都上緒さんという方のサイト「なんとかかんとか」に迷い込んだ。そこには、映画「東京オリンピック」の製作裏話が詳細に記述されていた。その中に次の記述があった。以下、原文のまま

「脚本を見ると、『 水球。決勝。水中撮影で選手たちの下半身の激しい動作、それに伴う水の乱れを捉えたい。』・・・

 公開された映画にはこんなシーンはない。しかし、僕は60年前のオリンピック終了後のある日、東京体育館プールで行われた追加撮影に参加した。そして、この脚本に沿った水中の格闘シーンを撮影した。
 早速、南都さんにメールを出してみた。すぐに丁寧な返事が来た。このシーンはオリジナル版(劇場公開版)、ディレクターズカット版ともに入っていないと。つまりカットされたわけだ。
 南都さんによれば、東京オリンピックで銅メダルを獲った男子バレーボールチームも後日、追加撮影をしたそうだが、結局使われたのは金メダルを獲った東洋の魔女チームだけだったと、男子監督だった松平康隆さんが著書で述懐していたそうである。この映画の公開直後、その記録性について、市川崑監督と河野一郎国務大臣(オリンピック担当)との間で激しい論争があったことは記憶に新しい。
 僕はそのシーンの脚本が確かに存在していたことを確認できただけでも嬉しかった。この映画の脚本は和田夏十、白坂依志夫、谷川俊太郎、市川崑という大物4人の共同執筆である。追加シーンのエキストラの仕事が僕らのチームに回って来たのは、谷川俊太郎さんのお父さん、谷川徹三先生が当時僕らの大学の総長だったからではないかとにらんでいる。

◇ヤーチャイカ(2008.7.12)
 製作前からNHKの番組などで紹介され、公開を心待ちにしていた映画。「写真映画」というコピーがついているが、1000枚のスチール写真をナレーションと音楽で綴った映画いわば長編スライドショーだ。つまり先般、自分が作ったスライドショーと基本的には同じ作りだ。そういう意味でもとても興味があった。出来映えもだいたい期待どおりだった。自分の作品は客観的な評価が難しいが、他人の作品は良し悪しがよく見える。この作品を見たことで自分の作り方が間違っていなかったなぁと自信にもなった。一つ言わせてもらうと、谷川俊太郎と覚和歌子という二人の詩人が作っているので、ナレーションはもっと詩的なものになるのかと期待していたが、オリジナルの物語だからやむをえないとは思うが、どうしても説明的になってしまうのが残念だった。しかし、覚さん自らやっている語りは好感が持てるし、香川照之の演技達者ぶりは静止画でもわかる。さらに尾野真千子はこれまで出演したどの動画よりも魅力的だ。

◇くまもと連詩(2010.3.20)
 今日は午後から、青年会館ホールで行なわれた「くまもと連詩 声がつながる 口承連詩の試み」を見に行く。谷川俊太郎、覚和歌子、ジェローム・ローゼンバーグ、四元康祐、伊藤比呂美の5人の詩人たちと通訳・翻訳のジェフリー・アングルスによって練り上げられた30編の連詩が、作者本人の朗読によって紹介された。詩の朗読しかも連詩などというのは、見るのも聴くのも初めてだったので、とても新鮮で、軽いカルチャーショックを受けた。さすがは当代一流の詩人たち、いずれ劣らぬ“言葉の匠”ぶりを発揮していた。
 また、冒頭では阿蘇神社の氏子たちによる「御田唄」が披露され、続けてジェローム・ローゼンバーグ氏が、セネカ族インディアンの唄を披露したが、二つの口承文化が、あまりにも似通っていることはちょっと感動的だった。そう言えば、岡本喜八監督の映画「EAST MEETS WEST 」(1995)で同じような話があったことを思い出した。


熊本城下町・菓子祭り

2024-11-17 19:25:25 | イベント
 今日は熊本県護国神社の「熊本城下町・菓子祭り」の日。かつて菓子職人の町として栄えた中職人町(現新町4丁目)にあった菓子の神様を祀る祠を、平成27年に護国神社境内に遷座。以来、毎年11月中旬に「菓子祭り」が開かれてきた。コロナで中止された年もあったが今年で7回目。境内には菓子を始めいろんな出店が立ち並び、詰めかけた多くの人々が食べながらイベントを楽しんでいた。


菓祖新宮神社。お菓子の神様「田道間守(たじまもり)」を祀る。


慶誠高校吹奏楽部(本殿前石舞台)


けんぶん少年少女合唱団(特設ステージ)


二の丸広場も秋色が濃くなってきた。

   「上中下の職人町は九州一の菓子の町」と唄う「肥後の通り名」

いまに生きるハーン

2024-11-16 21:07:24 | イベント
 今日は「小泉八雲没後120年記念事業」としてホテル熊本テルサで行われた小泉凡さん(八雲の曽孫)の講演を聴きに行った。汎さんは島根県立大学などで教鞭をとっておられるのでどんな講話になるのか楽しみだった。すると汎さんはパワーポイントを使ったビジネス・プレゼンテーションのようなスタイルで進行された。お話を聴きながら曽祖父・ハーン先生の五高時代の授業の話を思い出した。五高の教え子である村川堅固氏は五高の「 龍南会雑誌第二百号)の中で「母校に於ける小泉八雲先生」と題してハーン先生の教授法を次のように語っておられる。

――先生の教授法は一種独特のものであった。例えば文法を教えらるるにも教科書を用いらるるでなし、また口授筆記をさるるでなし、教場に入られて、出訣(欠)をつけらるる。それからクルリと振り返って、黒板に向い、チョークを取って、左の上の隅から文法を書き始められる。生徒は黙々としてそれを写す。その書かるるのはいささかの渋滞なく、時間の終わりの鐘のなるまで続く。鐘が鳴ると一礼して退出さるる。かくして写しきった筆記帳を放課後読んでみると、秩序整然、しかも日本学生にとって最も適切な文法上の注意が与えられている。先生は一片の原稿もなく、全時間いささかの淀みなく書き続けられ、しかもそれが極めて整ったものであったのは驚くべき技倆と思う。これは先生の天稟の文才もあったろうが、教場に出らるるまでには、頭の中で十分練って来られたことと思う。――

 時代背景が異なるので一概にどうとは言えないが、もしハーンの時代に、パソコンやパワーポイントやプロジェクターがあったなら、同じような使い方をされたかもしれない。
 講話の内容は現代社会と呼応する新しいハーンの世界が見直されているという話が中心だったが、それについては別の機会に取り上げたい。
 ハーンが10年間を過ごしたニューオーリンズでは、毎年2月に行われるマルディグラ・カーニバル(謝肉祭)において、ハーンにちなんだ山車がつくられ、100万人の観客の前を練り歩いたという話があったので「マルディグラ・イン・ニューオーリンズ」を聴いてみた。


比丘尼橋のはなし。

2024-11-15 17:27:33 | 歴史
 今日は磐根橋を渡った先から坪井の方へ降りる道を散歩した。曲がりくねった坂を下りながら、3年前、熊本博物館学芸員の中原幹彦先生からお誘いいただき、考古学講座の皆さんと熊本県伝統工芸館の裏にかつてあった坪井川船着場の現地調査に参加させていただいた時のことを思い出した。旧坪井川の船着場跡のほか棒庵坂から下る「あずき坂」や旧坪井川に架かる「折栴檀橋」の痕跡をと思ったのだが、残念ながら生い茂った草木で前に進めず断念した。

 その「折栴檀橋」について以前、津々堂さんが「明治初期の熊本の町名にある比丘尼橋は折栴檀橋の誤りである」と書かれたブログ記事があった。たしかに「折栴檀橋」が正しい呼び名なのだろう。しかし、仮にも熊本県(当時は白川県)が明治6年に発行した町名図の表記を間違うだろうかとずっと疑問に思っていた。ひょっとしたら「比丘尼橋」というのが俗称だったのではあるまいか。そんな時、ふと郷土史家・鈴木喬先生(2010年没)が「市史編さんだより」の中に書かれた「熊本の花街」シリーズのことを思い出した。鈴木先生の文章の中に次のような一節がある。

――文化年間(1804ー1818)のはじめ頃、城の三の丸の西側に当る段山一帯には私娼が群をなしていた。城内の大身の武家屋敷や新町・古町の商家にも近いため、知行取りの仲間、小者や町家の若者らの中には段山通いが普通のこととなっていた。このような私娼は本山や竹部にも巣喰っていたといい、熊本府中町筋のそこここにある料理茶屋や飲み屋にも住み込みで、浮かれ男を誘う芸事半分の娼妓も多かった。藩ではこのような状況を粛正しようとして、無届けの料理茶屋に廃業や転業を命じているが、大した効果も上らぬままに幕末を迎えるに至ったのである。――

 旧藩時代、熊本城の城下町は「古町、新町、坪井、京町」の四町を中心に整備されていた。三の丸の西側の風紀の乱れは反対側の坪井周辺も似たような状況にあったことが考えられる。坪井方面から登城する侍らが通る「折栴檀橋」付近にも私娼が跋扈していた可能性はある。鈴木先生の文章にも「竹部」が含まれている。橋のたもとで屯する私娼たちを見て、いつの頃からか人々は「比丘尼橋」と呼び始めたのかもしれない。これはあくまでも僕の想像に過ぎないが。


3年前の現地調査エリア(で囲った部分)

▼旧坪井川の様子(2024.11.15)



映像に字幕を付けよう!

2024-11-14 20:24:25 | 音楽芸能
 現在、YouTubeマイチャンネルには公開・非公開合わせて837本の動画をアップしている。自分の歳を考えると、これからそう多くの動画をアップできるわけではない。僕が生きた時代(特に平成)の文化の記録として残すため、既存の映像を可能な限りブラッシュアップしたいと考えている。具体的には字幕がない映像に字幕を付けたり、可能ならば解像度も上げたい。
 字幕なしの映像もまだまだ多いが、字幕を付けて再アップするとアクセス数が劇的に変わることもあり、それを楽しみに頑張ってやってみたい。 

   ◇字幕を付けた映像


   ◇字幕を付けていない映像


黄門さまと民謡

2024-11-13 20:55:50 | 音楽芸能
 よく見るテレビ番組といえば「水戸黄門シリーズ」。地元のRKK熊本放送とBS-TBSで月―金放送するので、毎日だいたいどちらかを必ず見ている。黄門さま主従が諸国を漫遊する中で、各地の民謡が登場する。民謡好きにとってこれが楽しみの一つでもある。
 たまたま今日見たRKK放送の話は
水戸黄門 第9部 最終話「三国一の嫁騒動」(水戸)
 黄門さまの地元が舞台で、旅籠に泊った一行が宴をやっていて、八兵衛が「磯節」を唄いながら踊る場面があった。僕の大好きな民謡の一つだが、今日の八兵衛の「磯節」はどちらかというと天草の牛深に伝わった「牛深磯節」のような陽気な曲調が印象的。

     ▼藤本二三吉が唄う「磯節」

 もう一つ黄門さまの地元の話では
水戸黄門 第6部 第31話「人情潮来節」(潮来)
 江戸中期に茨城県潮来に始まったといわれる「潮来節」の発展型が「潮来音頭/潮来甚句」。このうち「潮来甚句」は元をたどれば、海運に乗って伝わった「牛深ハイヤ節」がルーツともいわれている。

   ▼「潮来音頭/潮来甚句」
立方:花童(くるみ・あやの・あかね・ゆりあ)
地方:( 唄 )西村直子・吉里満寿美・宮本道代
   (三味線)本條秀美・本條秀咲・蒲原サヤ子・勇美智子
   (鳴 物)中村花誠・花と誠の会
   ( 笛 )今井冽

講演会「細川家と熊本のお茶」

2024-11-12 16:00:06 | 熊本
 昨夜は、福榮堂さんからおさそいを受けていた細川護光氏(細川護熙氏の長男)の講演会「細川家と熊本のお茶」を聴きに行った。会場は上通の菓舗まるいわ。1階の茶室でまるいわ名物の「あんさんどら」とお抹茶をいただいた後、3階に上がって講演会に臨んだ。細川護光氏は現在、陶芸家のほか永青文庫(東京都文京区)の理事長や水前寺成趣園の出水神社宮司を務めるなど多忙な日々を送っておられるという。講演の概要は
 鎌倉時代に足利氏の孫である足利義季が下野国から三河国細川郷に移り住み細川姓を名のったことに始まる細川家の歴史。文武に秀で近世細川氏の祖となった細川幽斎。千利休に傾倒し「利休七哲」の一人に数えられた細川三斎。そして三斎や細川忠利に請われ利休の教えを守る「肥後古流」の祖となった茶頭・古市宗庵の話などが語られた。
 講演後、福榮堂さんはかつて泰勝寺(現細川家立田別邸)とのご縁があった銘菓の復活に励んでおられることを参加者の皆様にプレゼンでき、また護光氏にも直接ご挨拶ができて今回の目的を果たされたようで良かった。僕も福榮堂さんのお話しを補足する資料を護光氏にお渡しできて安心した。

 細川幽斎公といえば、「九州道の記」に書かれた、天正15年(1587)、九州平定のために出陣した関白秀吉を福岡・筥崎宮で陣中見舞いし、瀬戸内を船で帰る途中、山口、国府天神(防府天満宮)を廻り、田島(現山口県防府市)へ乗る船が着くまでの間、鞠生浦(まりふのうら)で催された連歌の会の話を読むと、今から40数年前に住んでいた頃の防府、田島や鞠生浦跡の風景を思い浮かべて懐かしさを感じたものだ。


まるいわ名物「あんさんどら」         細川護光氏作陶の茶碗で抹茶を

ドラマ「小吉の女房(2)」を観ながら

2024-11-10 21:55:11 | ドラマ
 現在、NHK-BSでドラマ「小吉の女房(2)」が再放送されている。本放送時ほとんど見ていなかったので見始めた。このドラマは勝海舟を育てた破天荒な夫婦を描いた物語である。
 今日の回では、麟太郎(後の勝海舟)が父小吉の実家の親戚で奥女中を務める阿茶の局のツテで将軍の孫の遊び相手として江戸城に召し出されるという話があった。これを見ながら、わが父の幼少時のことを思い出してつい笑ってしまった。父は4~6歳の頃、泰勝寺に住まわれていた長岡家(細川刑部家)の若様の遊び相手として泰勝寺へ日参した。父が書き残した備忘録には次のような一節がある。

――長岡家は細川家の遠戚に当り、旧藩時代は家老職を務めた格式ある家柄。従って旧来の因習も多分に残る家庭であった。長岡家には二男一女があったが、その遊び相手選びにも厳しいものがあった。近くに散在する十一戸のうち、農家の一軒を除き、他は皆その昔、細川家の家臣であった家々である。これらの子弟の中から御曹子や御息女の遊び相手が選ばれたのである。こんな家庭への出入りであるので母も随分気を使ったようで、質素ではあるが、こざっぱりした木綿絣の着物に白の胸掛けというのが私の参上姿であった。――

 この当時、既に大正時代に入っていたが、父が言うように長岡家のような名家では子女の友達選びにも旧来の因習が残っていたものとみえる。一方、毎朝父を送り出す祖母も「わが子の出世」とでも思ったのか、その気の使いようがなんとなく滑稽に見えてくる。


泰勝寺山門跡(現細川家立田別邸)


泰勝寺の池(現立田自然公園)

不思議なご縁

2024-11-09 17:45:51 | 
 今日はベスト電器北熊本店に行った後、立田山麓の立田自然公園(泰勝寺跡)へ足を伸ばしてみた。茶室仰松軒での月イチ生け花指導に来られるU先生とお話しするのが楽しいので、今度いつ来られるのか公園入口の受付でたずねてみると、なんと今月は今日と明日来られる予定だという。10時には来られるというので、それまでにお詣りをしておこうと四つ御廟に向かった。四つ御廟の入口で二人のご婦人が園内清掃のおじさんに何か尋ねておられた。どうやらお二人は初めての来園で、ガラシャ夫人のつくばいを探しておられたようだ。僕もちょうどガラシャ廟の方へ行こうとしていたので、「つくばいは御廟の脇にありますよ」と言ってお二人をご案内した。
 それからしばらくお二人とガラシャ夫人のことや忠興公のことなどを立ち話した。なんとお二人も生け花の先生に会うのが目的だったようだ。そろそろ先生がお見えになるかと茶室仰松軒の方へ移動した。園内ではモデルさんの撮影会が行われていた。7、8人のモデルさんとその倍くらいの人数の撮影者がそれぞれ思い思いの場所を選んで撮影していた。この公園に来始めて20年以上経つと思うが初めて見る光景だった。
 結局、今日は先生のご都合がつかなかったのかお見えにならなかった。この公園では今までも意外な出会いを経験したが、今日も不思議なご縁を感じた。


茶室仰松軒でのモデル撮影

八幡のはなし。

2024-11-08 20:03:17 | 歴史
 先日の「ブラタモリ ~東海道五十七次編~」第2夜は五十四番目の伏見宿からわずか4㌔の五十五番目の淀宿だった。なぜここに?というタモリの疑問も、ここから少し街道を進んだところが徳川にとって極めて重要な要衝であったことがわかってくる。二つの山に挟まれた地形は、徳川に反旗を翻し江戸へ攻めのぼる西国大名の関門のようになっており、その山の上に鎮座するのが平安時代から崇敬され京を鎮護する石清水八幡宮。


 わが家は先祖代々藤崎八旛宮を氏神としている。藤崎八旛宮は、承平5年(935)に朱雀天皇が平将門の乱平定を祈願され、石清水八幡大神を国家鎮護の神として、茶臼山(今の藤崎台球場)に勧請されたことに始まる。明治16年生まれのわが祖母は藤崎八旛宮のことを「お八幡さん」と呼んでいたが、昔の人々の尊崇の念はとても強かったと聞く。
 そこで思い出すのが、慶長15年(1610)に加藤清正に招かれ、熊本で初めて「阿国歌舞伎」を披露した女性芸能者「八幡の国」のこと。後世の人々から「出雲阿国」と呼ばれたその人である。阿国が熊本で「八幡の国」を名乗ったのは、熊本の総鎮守として藤崎八旛宮を尊崇する領民の心を理解していたからかもしれない。


藤崎八旛宮

漱石くまもとの句 ~秋~

2024-11-07 20:10:02 | 文芸
 1週間ほど前、市立図書館へ行った時、郷土関連図書のコーナーで「くまもとの漱石 : 俳句の世界」という本が目に入った。これはまだ読んでなかったなと思い借りて来た。夏目漱石来熊120年記念の年に出版されたもので、漱石が熊本時代に詠んだ俳句をまとめたものらしい。
 今日は秋の句の中から三句選んでみた。

▼合羽町の家
 「病妻の閨(ねや)に灯ともし暮るゝ秋」

 明治29年秋、光琳寺の家から引っ越してすぐ鏡子夫人が病の床に伏したことがあり、漱石は寝ずの看病をしたそうだ。その時の心境を詠んだものだろう。何とやさしい旦那様と思われる向きもあろうが、エリート官僚の舅やお手伝いの老女まで一緒に付いて来た箱入り娘と結婚式を挙げてまだ3ヶ月。そりゃあそうなるでしょう。漱石まだ29歳である。
 この合羽町の家もその年が暮れて初めて迎えた正月にお客や生徒が押しかけて来て、これに懲りた漱石は1年にも満たない30年7月に大江村の家に引っ越すことになる。


合羽町の家

 「行秋や此頃参る京の瞽女(ごぜ)」

 当時は熊本にも京から瞽女(女性の盲人芸能者)がやって来たのだろうか。僕が幼かった戦後間もない頃まで、いろんな物売りが遠方からもやって来たが、瞽女の姿を見たことはない。明治中期の頃は熊本市は九州一の大都市だったのではるばるやって来る価値があったのかもしれない。

▼大江村の家
 「傘(からかさ)を菊にさしたり新屋敷」

 明治30年暮れ、正岡子規に送った俳句の中の一句。この時、漱石が住んでいた熊本三番目の新屋敷(大江村)の家は、明午橋の少し下流、現在の白川小学校の裏手辺り。どこに植えられていた菊かわからないが、隣接する「傘(からかさ)丁」と掛けているのかもしれない。


大江村に住んでいた頃の漱石夫妻。書生、使用人とともに

 漱石は熊本時代に900句余りの句を残したといわれる。秀句も多く、俳句の才能が花開いたのが熊本時代だった。

伏見 橦木町・笹屋

2024-11-06 20:52:53 | 古典芸能
 ブラタモリで「京街道」を見た後、あらためてルートを地図で確認してみた。すると京都伏見橦木町を通っていることに気が付いた。さらに「京街道」を紹介するサイトを見てみると街道沿いに橦木町遊郭入口の記念碑が立っているという。
 そこで大河ドラマ「元禄繚乱」を思い出した。あれは十八代中村勘三郎さん(当時は勘九郎)扮する大石内蔵助が伏見橦木町の笹屋で遊興する場面だった。そしてその場面では数人の芸妓が音曲を演奏していた。このドラマの邦楽指導を担当したのは本條秀太郎さんだったので一門の方が何人か出演されていて本條秀美さんもその一人だった。何を演奏されていたのか知りたくて秀美さんにおたずねしたことがある。秀美さんによれば、演奏したのは既成の曲ではなく、本條秀太郎先生が番組のために創られた曲だったという。そして、その時の音源は「元禄繚乱第32回 更けて廓」というタイトルでテープ媒体で保存されているという。機会があれば一度聴かせていただきたいものだ。


「元禄繚乱第32回 伏見橦木町・笹屋の場面」左から3人目が本條秀美さん

 大石内蔵助が伏見橦木町の笹屋で遊興した元禄時代の華やかな風俗を表現する「元禄花見踊」。


ブラタモリ ~東海道五十七次編~ 雑感

2024-11-05 17:24:58 | 歴史
 8ヶ月ぶりに復活した「ブラタモリ ~東海道五十七次編~」を3日連続で見た。今回のテーマである東海道の別ルートに込めた徳川の思惑もよく理解できた。五十三番目の大津で分岐させ、五十四次:伏見、五十五次:淀、五十六次:枚方、五十七次:守口の四宿を経て大坂高麗橋のゴール地点まで約54kmの旅。旅の様子はNHKプラスで1週間は配信されるのでまた後日ということにして、全体を通じた感想を記してみた。
 まず今回は3日連続の放送だったが、初日のみ45分で、2日目と3日目は28分だったので、できれば2日間にまとめて放送してもらいたかった。オープニングは井上陽水の「女神」をつい待ってしまう。あのラテンブラスとパーカッションのノリの良さが懐かしい。ナレーターのあいみょんは初めてだから無理もないが、まだ存在感を示すところまでは行かなかった。タモリさんのパートナー佐藤茉那アナも初出演で熊本局の新人時代よりも大人しめだったが、枚方鍵屋で案内した学芸員の「ごんぼ汁」の話に「もっと良い記述は」とツッコんだところは良かった。伏見からもっぱら下り船を利用する旅人目当ての「くらわんか舟」の話は面白かったが、客を舟着させるための遊郭や宿の飯盛女の話が出なかったのはNHK的な配慮か。
 タモリさんはやはり歳とったなぁという印象。同世代としてもうしばらく頑張っていただきたい。 


枚方鍵屋にて


淀川舟運と枚方宿

くまもとの秋もまもなく・・・

2024-11-04 11:45:28 | 季節
 暦の上では今は晩秋。あと3日もすれば「立冬」。もう冬である。
 「秋は夕暮・・・」などと枕草子気分になることもなく、慌ただしく秋は去ってゆくのだろうか。
 そんななか、昔と変わらぬ人々の営みに懐かしさと愛おしさを覚える今日この頃である。


「七五三詣り」加藤神社


「肥後のつりてまり」下通商店街