どんぴんからりん

昔話、絵本、創作は主に短編の内容を紹介しています。やればやるほど森に迷い込む感じです。(2012.10から)

イニーゴ・・フィリピン

2024年10月16日 | 昔話(東南アジア)

   フイリピンの昔ばなし/カラオの洞窟/荒木博之・編訳 三谷靭彦・絵/小峰書店/1989年

 

 家に帰るまで同行させてほしいと老人にたのんで、いっしょに歩きはじめたイニーゴ。

 家は遠いかとたずねると、四十キロいったところだと老人がいうと、イニーゴは、「なんとかその道をみじかくできんもんですか」といいました。

 こんなやりとりがつづいていきます。
 

 イニーゴは傘を持っていましたが、涼しい木陰につくと、わざわざ傘を頭の上にさしかけ休みました。
 またイニーゴは、靴を肩にかけ道中はだしで歩いていましたが、川をわたるとき、その靴をはきました。
 イニーゴは、死んだ人を担架にのせてやってくる一行にあうと、「おじいさん、あの人は生きているんですかい?」とたずねました。
 田植えをしているひとにあうと、「米を食べちまって、それでも米をうえているんだね」

 老人はイニーゴの言っていることが意味不明で、なんでおかしな男だろうと思いながら家にたどり着きました。イニーゴは、「お宅へ、よってもいいですか」といい、昼ご飯をテーブルに並べる手伝いをしました。イニーゴは、にわとりの蒸し焼きを四つの皿に切ってわけました。頭と脚を人一つ目の皿にのせ老人に、胸肉をのせた皿はおくさんに、羽をのせた皿は、娘のシリアカに、そして四つ目のモモ肉ののせた皿は、自分の前に置きました。

 老人は、イニーゴのやったにわとりの分け方が気に入らず、シリアカが皿を洗っている台所へいって文句を言いました。イニーゴを気に入っていたシリアスは、イニーゴの行動をあざやかに解明します。

 まずは、老人が気に入らないというにわとりの分け方。
 頭と脚を老人にあげたのは、一家の頭だから。胸肉をおくさんにあげたのは、一家の母だから。羽をわたしにくれたのは、あたしが一家の使い走りであちこち走り回るから。イニーゴがもも肉を残しておいたのは、お客さん用と映っているから。

 「遠すぎるから道を短くできないか」というのは、「面白い話をしてくれませんか」という意味で、そうすれば長い道のりでも短く感じられるから」

 「木陰で傘をさしたのは、枯れた木の枝が落ちてきて、頭にけがでもしないように」

 「川をわたるとき、その靴をはいたのは、とがった石などがあるから、けがをしないように」
 死んでいる人をみて、「あの人は生きているんですかい?」とたずねたのは、「その人の魂が生きているかって聞いたのよ」


 「米を食べちまって、それでも米をうえているんだね」というのは、この頃の田植えの仕方を皮肉ったもので、「人をやとって金を払うでしょう。稼ぐまえからお金を使ってるっていうことなの」

 

 日本の昔話にでてくる馬鹿息子は、さいごまでパッとしないのですが、このような解明だと、あとあじもすっきりです。