今回の帰省で昨年に亡くなった母の遺品を整理している中に小生が学生時代に使っていたピッケルがありました。以前に本ブログでも紹介しましたが、あらためて手入れしておきました。
このピッケルは高校、大学の大先輩で亡くなった家内の仲人をしてくれた方から大学時代に山登りをしている時に頂いたものです。
おそらく戦前のもの? 大先輩がスイスで購入したようです。シャフトが痛いんでいたので山岳専門店でシャフトを交換してもらいました。山岳専門店ではシャフトを交換しないほうが価値があると言って、当時(40年以上前)で10万円で引き取るということでしたが、実際に登山で使うので念入りにシャフトを交換してもらいました。
スイスのピッケルは有名ですが、このピッケルは一般的なものでそれほど有名でないメーカーのものです。
ATTENHOFER(アッテンホッファー)・・・?? 当時はピッケルについてずいぶんと調べた記憶があります。
現在のシャフトはタモだったと思います。鉄部は錆が進行しないように刀剣用の油を塗っておきました。冬山には使えませんので、春山にてメインに使っていましたが、登っている時は姿が美しいピッケルなので誇らしい気持ちになります。
さて本日の作品の紹介です。
古い陶磁器を愛する人は多いのですが、それを日常に使う人は残念ながら少ないと思われます。そしてそれを使いこなす人はもっと少ないのでしょう。確かに古い陶磁器は日常の使用に逡巡しがちです。用いても、花生か、酒器ぐらいのものが多いのですが、毀れることを気遺って箱に仕舞われていては、骨董や陶磁器としての生命はない。扱いに慎重を要しますが、それを用いることが、やきものを甦えらせることになるのでしょう。本日紹介する作品はそういう思いを募らせる作品だと思います。
古染付 束蓮文五寸皿五客揃
合箱
口径155*高台径*高さ33
美術館の陳列ケースの作品より美しいものがなにげなく座辺にあって用いられている作品にハッと身の引き締まる思いを抱くことは多い。さり気なく用いられることが、古陶磁器への思いやりと飾る人の感性が感じられて嬉しいものです。古陶磁器の魅力の原点は気どらぬ自然さにあるといえます。陶磁器の形が不均整であるのは自然だからであり、絵付が自由でのびのびとしているのは、作為がないからです。また初源の伊万里や、創成期の唐津が美しくて力強いのは、そのうぶ気な稚拙さの中にも、ひたむきな自然さが感じられるからでしょう。それらは親み深く、観る人の心を把えてはなさない。
自然であることは、いかにも美しい在り方と言えます。逆に言えば、人巧を弄することは自然に逆らうことであって、その度合いは美しさに反比例する。つまり自然であれば、ある程美しいと言えよう。これらは、骨董や陶磁器に限らず、人間の在り方や生き方をも暗示している。そのような古陶磁器の代表格に「古染付」があると思いまます。
古染付とは南方民窯の呉須手とは区別され、一般に中国,明末・天啓年間(1621年~1627年)あるいは崇禎年間(1621年~1644年)頃に作られ、江西・景徳鎮の民窯にて焼かれた染付磁器ことをいいます。
明らかに日本向けとされるものも含まれ、重厚なつくり、陶工の意匠を素直に表した飄逸みにあふれる文様が特徴です。その味わい深い古染付、茶人に親しまれることによって日本では珍重され、中国には遺品が皆無であり、ほとんどの遺品は日本にのみ伝わっている。
古染付の呼称については諸説ありますが、江戸時代の資料にはみられないことからも決して古くから使われていた言葉ではないようです。茶会記や箱書きによると、それ以前には「南京」つまり中国渡りの染付との意味で「染付南京」と呼ばれていたようです。
本作品の保管用の箱にも「南京」の文字が記されています。
その後江戸後期に伝わった煎茶道具の清朝染付に対して、初期に渡った古渡りの染付を「古染付」と呼ばれたとの説が一般的です。天啓の染付を、我国では俗に「古染付」と呼んでいますが、それは何時頃、誰によって名付けられたものかは判然としないとのことです。
当時以後の茶会記や陶書関係のどこを見ても、その名は見当らないようです。いずれにしても、その時期はせいぜい百年位前ではなかろうかといわれています
。
「元」に始まったといわれる染付が、「明」に入って宣徳、成化、嘉靖、万暦、天啓、崇禎と続き、それぞれの時代の作風が見栄えを競って咲き誇った中で、どうして天啓の染付だけが「古染付」と呼ばれたのは、茶人による特注の日本向特別品という意味合にも関係するのでしょう。そして数ある染付の中で、特に天啓染付だけを別に呼称したのは、その風雅な作風を重んじ、他の時代の染付と敢えて区別した数寄者の慧眼と、粋な心根にあると言わねばならないでしょう。天啓染付にこの様な愛称を与へた人の機智もさることながら「古染付」とは正に言い得て妙であり、染付へのほのかな郷愁を、これ程に微妙に匂わした呼び名はないのであろう。
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明末の景徳鎮
明末の景徳鎮(萬暦年間)における御器廠への焼造下命はおびただしい量となり、碁石・碁盤・碁罐・屏風・燭台・筆管といった食器の類ではないものまで用命されるようになった。その結果、原料の消費は甚だしく採土坑は深く掘り下げられ、役人は私腹を肥やし、陶工らは辛酸を舐めることとなった。しかし、萬暦帝の崩御により御器焼造は中止となり御器廠は事実上の閉鎖を迎える。このような背景の中、景徳鎮の民窯によっていわゆる古染付、天啓赤絵・芙蓉手・祥瑞・南京赤絵が生み出されていった。古染付の生まれた天啓(1621年~1627年)は、万暦につづく7年間で、約300年の明朝の歴史の中で、国力の最も衰微した末期に当り、景徳鎮窯業史からみれば、乱世という社会情勢の中で、これまで主役を演じて来た御器が廃止され、それに代って民窯の活動が一段と盛んになった時期である。俗に天啓染付と称する一種独特のやきものが生まれて来たのは、この様な時代背景があってのことで、天啓年代に至って突如として出現したものではなく、万暦年間に既にその萠芽は見られ、官窯が消退したために、官窯の特徴であったかたさが次第に消えて、勢い民窯の風味が表に出てきて、それが古染付の母体となった。従って年代的には、どこからどこが古染付の出現した時代かは判断とせず、天啓を中心とした明未清初の端境期のやきものとうけとめた方が適切である。
この様な生い立ちの古染付はいかにも中国陶磁の伝統を笑うかの様に自由奔放で、さり気ない。律義に、しかも均等に余白を唐草模様や雲竜文で埋め尽すような明代の染付に較べ、古染付の絵付は、いかにもおおらかで、屈託がない。そこには、こうしなければならないといった制約もなければ、そうなるのが当然といった習慣めいた惰性もない。その文様において描線が曲っていようと、線が一本余っても足りなくても、また太くても細くても、一向にお構いなしといった鷹揚さが、反って古染付の古拙ぶりを助長し、その面目を躍如とさせている。 また、線描きを主とした幾何様文でも、輪文、網文、麦藁文、石畳文、更紗文など、描線が自由にのびのびとしながらも、決してバランスを崩さず、沃気に満ちた現代陶芸が、真似の出来ない風雅を醸し出している。 そこに描かれるものは、山水を始めとして、花鳥、人物、動物、故事、物語など、何事も画題となり、あらかじめ意図された意匠がないかの如く、自由でかつ、即興的である。 そして、絵付の展開は甚だ詩情的であり、説話的である。この様な卓抜なデザインは、初期伊万里染付のごく一部を除いては例をみない。
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虫喰には後世になって金繕いで補修されているものも少なくない。
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古染付の特徴
銘
古染付には「大明天啓年製」「天啓年製」あるいは「天啓年造」といった款記が底裏に書かれていることがあり、この他にも「天啓佳器」といったものや「大明天啓元年」など年号銘の入ったものも見られる。また年号銘でも「成化年製」「宣徳年製」など偽銘を用いた作例もあり、優品を生み出した過去の陶工に敬意を払いつつもそれまでの様式にとらわれることはなかった。これら款記は正楷書にて二行もしくは三行であらわされるのが慣例とされていたが、款記と同じく比較的自由に書かれており、まるで文様の一つとして捉えていたようにも思える。それ以前の景徳鎮では、このように自由な作例はみられず、民窯であったからこそ陶工の意匠を素直に表した染付を生み出すことができた。
虫食い
天啓で使われていた陶土は決して上質のものではなく、そのため焼成時に胎土と釉薬の収縮率の違いから生まれてしまう。特に口縁部は釉が薄く掛かるために気孔が生じて空洞となり、冷却時にその気孔がはじけて素地をみせるめくれがのこってしまう。本来、技術的には問題となるところを当時の茶人は、虫に食われた跡と見立て鑑賞の対象とした。古染付特有の特徴であることも知られる。
絵付
土青による濃青な発色をうまく使い、様々な器形に合わせて絵画的な表現を用い絵付を行った。それまでの型にはまった様式から一歩踏み出し、自由奔放な筆致で明末文人画を例にとった山水や花鳥、羅漢・達磨など描いている。
器形
中国では元来、小皿の形の多くは円形をなしている。古染付でも円形の小皿は多くみられ、その他にも様々な器形がつくられている。十字形手鉢・木瓜形手鉢・扇形向付といったものは織部に見られる器形であり、日本から木型等を送り注文をしていたのではないだろうかとも想像できる。轆轤を専門としていた景徳鎮において、手捻ねりへの突然の変更は難しい。しかし、その注文に応じていくうちに更に独創的な形(菊形・桃形・柏形・魚形・馬形・海老形・兎形)を生み出し、古染付独自の器形をつくり上げていったことは確かである。
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高台は砂付高台が一般的で、高台内は車輪高台とも呼ばれている鉋の跡があるものが評価が高くなります。
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派生した器
天啓赤絵
古染付と時同じくして天啓年間(1621~27)にはじまり、景徳鎮の民窯にて焼かれた赤絵のこという。萬暦まで続いた官窯様式から脱却した古染付に朱・緑・黄にて上絵付を施している。その特徴は古染付とほぼ同様であるが、古染付と比してその生産量はかなり少ない。
南京赤絵
南京とは中国を意味する言葉として使われており、南京赤絵とは中国・明末の赤絵のことを言うが、狭義では天啓赤絵・色絵祥瑞らと区別して使われることが多い。その意味で南京赤絵は、明末に景徳鎮で作られた五彩のことを指し、施文には染付を用いずに主として赤・緑・黄を使い、染付は銘など一部に限られている。 華麗な意匠のものが多く、口縁には鉄砂で口紅が施されるもの、金彩を加えた豪華なものがある。
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古染付は自由奔放なユーモアのある作品が脚光を浴びますが、実はその対極にある品格が実は一番大切なのがとこの作品は教えてくれます。
気取らぬ品格・・・、これは実に難しい。
きちんと虫喰、砂付高台、車輪高台の三種を兼ね備えた作品は少ないし、バラで売られることが多くなり、揃いの作品も少なくなっています。
古染付は時代が下がると三種を備えた作品ではなくなる??
本来、古染付は最低10人揃いくらいで注文されたはずです。
揃えてきちんとしておき、いつか使いましょう。どのような膳に似合うかが楽しみです。
このピッケルは高校、大学の大先輩で亡くなった家内の仲人をしてくれた方から大学時代に山登りをしている時に頂いたものです。
おそらく戦前のもの? 大先輩がスイスで購入したようです。シャフトが痛いんでいたので山岳専門店でシャフトを交換してもらいました。山岳専門店ではシャフトを交換しないほうが価値があると言って、当時(40年以上前)で10万円で引き取るということでしたが、実際に登山で使うので念入りにシャフトを交換してもらいました。
スイスのピッケルは有名ですが、このピッケルは一般的なものでそれほど有名でないメーカーのものです。
ATTENHOFER(アッテンホッファー)・・・?? 当時はピッケルについてずいぶんと調べた記憶があります。
現在のシャフトはタモだったと思います。鉄部は錆が進行しないように刀剣用の油を塗っておきました。冬山には使えませんので、春山にてメインに使っていましたが、登っている時は姿が美しいピッケルなので誇らしい気持ちになります。
さて本日の作品の紹介です。
古い陶磁器を愛する人は多いのですが、それを日常に使う人は残念ながら少ないと思われます。そしてそれを使いこなす人はもっと少ないのでしょう。確かに古い陶磁器は日常の使用に逡巡しがちです。用いても、花生か、酒器ぐらいのものが多いのですが、毀れることを気遺って箱に仕舞われていては、骨董や陶磁器としての生命はない。扱いに慎重を要しますが、それを用いることが、やきものを甦えらせることになるのでしょう。本日紹介する作品はそういう思いを募らせる作品だと思います。
古染付 束蓮文五寸皿五客揃
合箱
口径155*高台径*高さ33
美術館の陳列ケースの作品より美しいものがなにげなく座辺にあって用いられている作品にハッと身の引き締まる思いを抱くことは多い。さり気なく用いられることが、古陶磁器への思いやりと飾る人の感性が感じられて嬉しいものです。古陶磁器の魅力の原点は気どらぬ自然さにあるといえます。陶磁器の形が不均整であるのは自然だからであり、絵付が自由でのびのびとしているのは、作為がないからです。また初源の伊万里や、創成期の唐津が美しくて力強いのは、そのうぶ気な稚拙さの中にも、ひたむきな自然さが感じられるからでしょう。それらは親み深く、観る人の心を把えてはなさない。
自然であることは、いかにも美しい在り方と言えます。逆に言えば、人巧を弄することは自然に逆らうことであって、その度合いは美しさに反比例する。つまり自然であれば、ある程美しいと言えよう。これらは、骨董や陶磁器に限らず、人間の在り方や生き方をも暗示している。そのような古陶磁器の代表格に「古染付」があると思いまます。
古染付とは南方民窯の呉須手とは区別され、一般に中国,明末・天啓年間(1621年~1627年)あるいは崇禎年間(1621年~1644年)頃に作られ、江西・景徳鎮の民窯にて焼かれた染付磁器ことをいいます。
明らかに日本向けとされるものも含まれ、重厚なつくり、陶工の意匠を素直に表した飄逸みにあふれる文様が特徴です。その味わい深い古染付、茶人に親しまれることによって日本では珍重され、中国には遺品が皆無であり、ほとんどの遺品は日本にのみ伝わっている。
古染付の呼称については諸説ありますが、江戸時代の資料にはみられないことからも決して古くから使われていた言葉ではないようです。茶会記や箱書きによると、それ以前には「南京」つまり中国渡りの染付との意味で「染付南京」と呼ばれていたようです。
本作品の保管用の箱にも「南京」の文字が記されています。
その後江戸後期に伝わった煎茶道具の清朝染付に対して、初期に渡った古渡りの染付を「古染付」と呼ばれたとの説が一般的です。天啓の染付を、我国では俗に「古染付」と呼んでいますが、それは何時頃、誰によって名付けられたものかは判然としないとのことです。
当時以後の茶会記や陶書関係のどこを見ても、その名は見当らないようです。いずれにしても、その時期はせいぜい百年位前ではなかろうかといわれています
。
「元」に始まったといわれる染付が、「明」に入って宣徳、成化、嘉靖、万暦、天啓、崇禎と続き、それぞれの時代の作風が見栄えを競って咲き誇った中で、どうして天啓の染付だけが「古染付」と呼ばれたのは、茶人による特注の日本向特別品という意味合にも関係するのでしょう。そして数ある染付の中で、特に天啓染付だけを別に呼称したのは、その風雅な作風を重んじ、他の時代の染付と敢えて区別した数寄者の慧眼と、粋な心根にあると言わねばならないでしょう。天啓染付にこの様な愛称を与へた人の機智もさることながら「古染付」とは正に言い得て妙であり、染付へのほのかな郷愁を、これ程に微妙に匂わした呼び名はないのであろう。
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明末の景徳鎮
明末の景徳鎮(萬暦年間)における御器廠への焼造下命はおびただしい量となり、碁石・碁盤・碁罐・屏風・燭台・筆管といった食器の類ではないものまで用命されるようになった。その結果、原料の消費は甚だしく採土坑は深く掘り下げられ、役人は私腹を肥やし、陶工らは辛酸を舐めることとなった。しかし、萬暦帝の崩御により御器焼造は中止となり御器廠は事実上の閉鎖を迎える。このような背景の中、景徳鎮の民窯によっていわゆる古染付、天啓赤絵・芙蓉手・祥瑞・南京赤絵が生み出されていった。古染付の生まれた天啓(1621年~1627年)は、万暦につづく7年間で、約300年の明朝の歴史の中で、国力の最も衰微した末期に当り、景徳鎮窯業史からみれば、乱世という社会情勢の中で、これまで主役を演じて来た御器が廃止され、それに代って民窯の活動が一段と盛んになった時期である。俗に天啓染付と称する一種独特のやきものが生まれて来たのは、この様な時代背景があってのことで、天啓年代に至って突如として出現したものではなく、万暦年間に既にその萠芽は見られ、官窯が消退したために、官窯の特徴であったかたさが次第に消えて、勢い民窯の風味が表に出てきて、それが古染付の母体となった。従って年代的には、どこからどこが古染付の出現した時代かは判断とせず、天啓を中心とした明未清初の端境期のやきものとうけとめた方が適切である。
この様な生い立ちの古染付はいかにも中国陶磁の伝統を笑うかの様に自由奔放で、さり気ない。律義に、しかも均等に余白を唐草模様や雲竜文で埋め尽すような明代の染付に較べ、古染付の絵付は、いかにもおおらかで、屈託がない。そこには、こうしなければならないといった制約もなければ、そうなるのが当然といった習慣めいた惰性もない。その文様において描線が曲っていようと、線が一本余っても足りなくても、また太くても細くても、一向にお構いなしといった鷹揚さが、反って古染付の古拙ぶりを助長し、その面目を躍如とさせている。 また、線描きを主とした幾何様文でも、輪文、網文、麦藁文、石畳文、更紗文など、描線が自由にのびのびとしながらも、決してバランスを崩さず、沃気に満ちた現代陶芸が、真似の出来ない風雅を醸し出している。 そこに描かれるものは、山水を始めとして、花鳥、人物、動物、故事、物語など、何事も画題となり、あらかじめ意図された意匠がないかの如く、自由でかつ、即興的である。 そして、絵付の展開は甚だ詩情的であり、説話的である。この様な卓抜なデザインは、初期伊万里染付のごく一部を除いては例をみない。
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虫喰には後世になって金繕いで補修されているものも少なくない。
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古染付の特徴
銘
古染付には「大明天啓年製」「天啓年製」あるいは「天啓年造」といった款記が底裏に書かれていることがあり、この他にも「天啓佳器」といったものや「大明天啓元年」など年号銘の入ったものも見られる。また年号銘でも「成化年製」「宣徳年製」など偽銘を用いた作例もあり、優品を生み出した過去の陶工に敬意を払いつつもそれまでの様式にとらわれることはなかった。これら款記は正楷書にて二行もしくは三行であらわされるのが慣例とされていたが、款記と同じく比較的自由に書かれており、まるで文様の一つとして捉えていたようにも思える。それ以前の景徳鎮では、このように自由な作例はみられず、民窯であったからこそ陶工の意匠を素直に表した染付を生み出すことができた。
虫食い
天啓で使われていた陶土は決して上質のものではなく、そのため焼成時に胎土と釉薬の収縮率の違いから生まれてしまう。特に口縁部は釉が薄く掛かるために気孔が生じて空洞となり、冷却時にその気孔がはじけて素地をみせるめくれがのこってしまう。本来、技術的には問題となるところを当時の茶人は、虫に食われた跡と見立て鑑賞の対象とした。古染付特有の特徴であることも知られる。
絵付
土青による濃青な発色をうまく使い、様々な器形に合わせて絵画的な表現を用い絵付を行った。それまでの型にはまった様式から一歩踏み出し、自由奔放な筆致で明末文人画を例にとった山水や花鳥、羅漢・達磨など描いている。
器形
中国では元来、小皿の形の多くは円形をなしている。古染付でも円形の小皿は多くみられ、その他にも様々な器形がつくられている。十字形手鉢・木瓜形手鉢・扇形向付といったものは織部に見られる器形であり、日本から木型等を送り注文をしていたのではないだろうかとも想像できる。轆轤を専門としていた景徳鎮において、手捻ねりへの突然の変更は難しい。しかし、その注文に応じていくうちに更に独創的な形(菊形・桃形・柏形・魚形・馬形・海老形・兎形)を生み出し、古染付独自の器形をつくり上げていったことは確かである。
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高台は砂付高台が一般的で、高台内は車輪高台とも呼ばれている鉋の跡があるものが評価が高くなります。
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派生した器
天啓赤絵
古染付と時同じくして天啓年間(1621~27)にはじまり、景徳鎮の民窯にて焼かれた赤絵のこという。萬暦まで続いた官窯様式から脱却した古染付に朱・緑・黄にて上絵付を施している。その特徴は古染付とほぼ同様であるが、古染付と比してその生産量はかなり少ない。
南京赤絵
南京とは中国を意味する言葉として使われており、南京赤絵とは中国・明末の赤絵のことを言うが、狭義では天啓赤絵・色絵祥瑞らと区別して使われることが多い。その意味で南京赤絵は、明末に景徳鎮で作られた五彩のことを指し、施文には染付を用いずに主として赤・緑・黄を使い、染付は銘など一部に限られている。 華麗な意匠のものが多く、口縁には鉄砂で口紅が施されるもの、金彩を加えた豪華なものがある。
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古染付は自由奔放なユーモアのある作品が脚光を浴びますが、実はその対極にある品格が実は一番大切なのがとこの作品は教えてくれます。
気取らぬ品格・・・、これは実に難しい。
きちんと虫喰、砂付高台、車輪高台の三種を兼ね備えた作品は少ないし、バラで売られることが多くなり、揃いの作品も少なくなっています。
古染付は時代が下がると三種を備えた作品ではなくなる??
本来、古染付は最低10人揃いくらいで注文されたはずです。
揃えてきちんとしておき、いつか使いましょう。どのような膳に似合うかが楽しみです。