夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

古染付 青花松鶴鹿図陽刻輪花五寸皿

2022-05-29 00:01:00 | 陶磁器
帰郷に際して久方ぶりに扱った漆器・・。自宅にあった漆器も保存状態を再確認・・・。



真塗茶会席膳 五客揃(三十人揃いの内)
杉箱 
幅360*奥行360*高さ40 杉箱入



本日は本ブログでたびたび紹介している古染付の小皿です。伊万里の中皿、南京赤絵の小皿などらと共に普段使いに使えそうな皿類を気に入った作品があると入手していますが、本日もそのような作品のひとつです。

古染付の作品はいくつか本ブログで紹介されています。なかなかこれぞという作品は入手できませんが、小皿、中皿のような実用的なものは気に入った作品があると入手しています。

古染付 青花松鶴鹿図陽刻輪花五寸皿
高台内銘「雅」 合箱:箱書:文化10年(1813年)とある
口径152*高台径72*高さ35


明末の景徳鎮(萬暦年間)における御器廠への焼造下命はおびただしい量となり、碁石・碁盤・碁罐・屏風・燭台・筆管といった食器の類ではないものまで用命されるようになった。その結果、原料の消費は甚だしく採土坑は深く掘り下げられ、役人は私腹を肥やし、陶工らは辛酸を舐めることとなります。


しかし、萬暦帝の崩御により御器焼造は中止となり御器廠は事実上の閉鎖を迎えます。このような背景の中、景徳鎮の民窯によっていわゆる古染付、天啓赤絵・芙蓉手・祥瑞・南京赤絵が生み出されました。古染付の生まれた天啓(1621年~1627年)は、万暦につづく7年間で、約300年の明朝の歴史の中で、国力の最も衰微した末期に当り、景徳鎮窯業史からみれば、乱世という社会情勢の中で、これまで主役を演じて来た御器が廃止され、それに代って民窯の活動が一段と盛んになった時期とされます。俗に天啓染付と称する一種独特のやきものが生まれて来たのは、この様な時代背景があってのことで、天啓年代に至って突如として出現したものではなく、万暦年間に既にその萠芽は見られ、官窯が消退したために、官窯の特徴であったかたさが次第に消えて、勢い民窯の風味が表に出てきて、それが古染付の母体となった。従って年代的には、どこからどこが古染付の出現した時代かは判断とせず、天啓を中心とした明未清初の端境期のやきものとうけとめた方が適切のようです。


この様な生い立ちの古染付はいかにも中国陶磁の伝統を笑うかの様に自由奔放で、さり気ない作行となります。律義に、しかも均等に余白を唐草模様や雲竜文で埋め尽すような明代の染付に較べ、古染付の絵付は、いかにもおおらかで、屈託がありません。そこには、こうしなければならないといった制約もなければ、そうなるのが当然といった習慣めいた惰性もありません。

その文様において描線が曲っていようと、線が一本余っても足りなくても、また太くても細くても、一向にお構いなしといった鷹揚さが、反って古染付の古拙ぶりを助長し、その面目を躍如とさせています。 また、線描きを主とした幾何様文でも、輪文、網文、麦藁文、石畳文、更紗文など、描線が自由にのびのびとしながらも、決してバランスを崩さず、沃気に満ちた現代陶芸が、真似の出来ない風雅を醸し出していると言えるでしょう。 そこに描かれるものは、山水を始めとして、花鳥、人物、動物、故事、物語など、何事も画題となり、あらかじめ意図された意匠がないかの如く、自由でかつ、即興的です。 そして、絵付の展開は甚だ詩情的であり、説話的でもあります。この様な卓抜なデザインは、初期伊万里染付のごく一部を除いては例をみないものです。


前述のような明末の大量生産の結果、原料の消費は甚だしく採土坑は深く掘り下げられ、採土坑は非常に危険性の高いものとなりました。その結果、採土坑の浅い分から陶土が採掘され、天啓で使われていた陶土は決して上質のものではなくなります。そのため焼成時に胎土と釉薬の収縮率の違いが生じ、特に口縁部は釉が薄く掛かるために気孔が生じて空洞となり、冷却時にその気孔がはじけて素地をみせるめくれがのこってしまいます。本来、技術的には問題となるところを当時の茶人は、虫に食われた跡、つまり「虫喰}と見立て鑑賞の対象としました。古染付特有の特徴であることとされますが、同じ現象が明末の漳州窯の作品でも見受けられます。


絵付は土青による濃青な発色をうまく使い、様々な器形に合わせて絵画的な表現を用い絵付を行っています。それまでの型にはまった様式から一歩踏み出し、自由奔放な筆致で明末文人画を例にとった山水や花鳥、羅漢・達磨など描いている作品が多くなります。

また中国では元来、小皿の形の多くは円形をなしており、古染付でも円形の小皿は多くみられ、その他にも様々な器形がつくられています。十字形手鉢・木瓜形手鉢・扇形向付といったものは織部に見られる器形であり、日本から木型等を送り注文をしていたのではないだろうかとも想像されています。轆轤を専門としていた景徳鎮において、手捻ねりへの突然の変更は難しいかったようですが、その注文に応じていくうちに更に独創的な形(菊形・桃形・柏形・魚形・馬形・海老形・兎形)を生み出し、古染付独自の器形をつくり上げていったことは確かなようです。ただその多くは円形の皿が多いとされます。


古染付には「大明天啓年製」「天啓年製」あるいは「天啓年造」といった款記が底裏に書かれていることが多い。この他にも「天啓佳器」といったものや「大明天啓元年」など年号銘の入ったものも見られるようです。また年号銘でも「成化年製」「宣徳年製」など偽銘を用いた作例もあり、優品を生み出した過去の陶工に敬意を払いつつもそれまでの様式にとらわれることはなかったようです。


これら款記は正楷書にて二行もしくは三行であらわされるのが慣例とされていましたが、款記と同じく比較的自由に書かれており、まるで文様の一つとして捉えていたようにも思えるます。本作品における「雅」という銘の作品も多いようです。それ以前の景徳鎮では、このように自由な作例はみられず、民窯であったからこそ陶工の意匠を素直に表した染付を生み出すことができた推測されます。


本作品に誂えられている箱の箱書は下記のようなものです。


文化10年は西暦1813年となります。

古くから愛玩されてきた古染付の作品ですが、むろん駄作もたくさんあるし、模倣作品も多々あります。基本的には真贋を見極めてうえで、絵柄が粋であったり、雰囲気がいかにもという作品があきがこないようです。




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