2015年11月13日(金)、一関市川崎町薄衣(うすぎぬ)にある色の御前滝を見てきました。この滝は、国道284号線(一関~気仙沼、今泉街道)沿いにあり、蛇行する千厩川を短くするために切り落とした人工的な堰堤だそうです。
(上と下2つ)割山のケヤキ(欅):2006年3月3日付「岩手日日」
「割山のケヤキ」保存へ?川崎・国道284号砂子田工区。「割山のケヤキ」は残った。千厩地方振興局土木部は一関市川崎町薄衣地内で国道284号改良工事を実施しているが、設計変更して伐採予定だったケヤキの大木を保存。樹齢約240年を誇るケヤキは、千厩川側に車道を最大で約5mずらし、上下線を分離して三日月型の緑地帯の中に確保。地域の歴史を見続けてきた大木が次代へ生き延びた。同土木部では「住民の要望もあり、残せるものは残したい」と話している。砂子田工区は集中的に工事費を投入し、交通の難所が一気に解消される運び。今月末に開通する。
改良工事区間にあるケヤキは「割山のケヤキ」の名で親しまれている。旧川崎村教委が16年6月に建立した標柱には、推定樹齢240年、根元周4.58m、目通周4.3mと記入している。悲しい民話の舞台となっている千厩川「色の御前滝」と一体となった景観を形成している。(以下省略)
見る目が淵物語:千厩の小田に小次郎という者があり、京都への飛脚を仕事としていた。小次郎は京都在住中、色の御前と知り合う仲となり、一子を得た。
小次郎はそののち帰郷したが、再び上京しないので、色の御前は夫小次郎を慕い奥州の地千厩まで探し尋ねて来た。ところが小次郎は、郷里小田で妻女を迎える話がきまり、色の御前が着いたその日こそ婚礼の当日であった。親族一同は計って、小次郎は死亡し、只今葬儀のところであると言いきかせた。
色の御前は空しく帰途につき、本村見る目が淵のほとりまで来た。ふと水面を見ると、背負っていた子の顔が恋い慕う小次郎に見えた。色の御前は、あれ小次郎やと渕に身を投じた。これを知った村人は墓を立て懇ろに弔ったといわれ、見る目が淵は色の御前ともいわれている。
色の御前物語:今から約300年前、東山小田に小田与四郎という若者がおった。その与四郎がある年、伊勢参宮を思い立ち、その途次、京、大阪も見物しておこうと、京都に上った。さて、土産には公卿さまの御染筆をいただいて帰り、子孫末代までの宝にしようと、大納言卿の邸を訪れ、金子若干を包んで嘆願に及んだ。
運よく願いは聞き入れられて一室に通された。与四郎は、百姓には珍しく眉目秀麗な若者であった。間もなく静かに唐紙が開かれ一人の美しい姫君が入って来られた。若者与四郎の胸はふるえ、面を上げ得ないままに挨拶を申し上げた。姫も鄭重に頭を下げ、お茶をすすめられたが、顔を上げた瞬間、姫も若者も紅くほてり恍惚となってしまった。問われるままに、私は奥州は東山、小田の与四郎と申す者であると答えた。話をしたのはそれだけであった。
若者は京より帰郷した。間もなく大納言の姫君「色の御前」は、若者与四郎の後を追い白河の関までたどりついた。関守がとがめて止めたが 千早ふる 神のみすえのわれなるに 名のらじとても通せ 関守 と詠んで通り過ぎ、奥州路を薄衣の里までたどりついた。道行く人に小田の里を聞くと、あと間もないとのこと、京を出発以来2ケ月の旅のやつれを整え、髪もくしけずろうと、小川の渕に立ちふと水鏡に写った自分の顔を見て驚いてしまった。余りにもやつれ果てた姿がそこにあったからである。色の御前は信じられないままにもう一度水面を覗こうとした。その瞬間足がよろめいて青い渕へ落ち込んでしまった。疲れ切っていた色の御前には這い上がる力はなく、美しい姿は水の底深く沈んでしまった。このことがあってから、誰言うともなくこの渕を「見る目が淵」というようになった。[一関市教育委員会、平成27年2月発行『川崎地域の文化財(川崎村文化財調査報告書復刻版)平成26年度いちのせき元気な地域づくり事業」より]
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