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歴史から消されたまち坂本(明智光秀の墓がある)

2013-10-30 14:25:14 | 旅行記

琵琶湖のほとりに坂本という町があった。むかしから比叡山延暦寺の門前町として栄えた。

京都へ行き、東山トレイルを走り、ふと京都から比叡山へ足を伸ばした。JR駅でパンフレットを手にして坂本という町を初めて知った。

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JRでも坂本にはいけますが、ここはローカルチックに京阪電鉄で行くのがよろし。

JR坂本駅前から比叡山ケーブル駅いきのバスが出ています。

だけど京阪電鉄坂本駅から徒歩で行くほうが風情があっていい。

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坂本は関東者には全く馴染みのない土地名。

琵琶湖側からケーブルカーで比叡山へ登れると聞いて、京阪石山本線で終点の坂本までやってきた。

行きはバスで比叡山ケーブル駅までいったが、帰りは風情がありバスで通過するのがもったいないので徒歩でユックリおりてきた。

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ただならぬ程の研ぎ澄まされた風情、、、歴史を感じた。イラストはクリックすると大きくなります。

この街、坂本の立たずまいの素晴らしさの割になぜ知られていないのだ、、、とものすごい疑問を感じたものです。

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歩きだしたら、この町がかもし出すピーンとした空気を感じます。何かの聖域というかパワースポットのようなものです。

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歴史を紐解くと、坂本は歴史上の悪者、明智光秀と切っても切れない。比叡山を信長の命で焼き討ちした明智光秀が功として拝領した土地。

織田信長に命ぜられた明智が1571年9月12日に3万の兵をもって比叡山全山の焼き討ちを敢行した。当時の比叡山は増兵がいて朝廷や織田信長ら武士にとって目の敵であった。

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当時の比叡山は食い潰れ者を僧兵で雇って横暴を尽くしていたのが実際の姿だった。今のお坊さんのイメージとはかけ離れていて、増兵は朝廷や武家にとって目の上のたんこぶだった。

山法師と呼ばれたのが比叡山の増兵。
興福寺の奈良法師。
園城寺の寺法師と寺ごとに荒くれ者を集めていた。

増兵は仏をバックにしているし、お寺ごとに数万を抱えているので武士とてなかなか手を出せなかったのだ。

時代が変わったのは、お寺の増兵以上に狂気を持っていた織田信長を待たなければならなかった。

比叡山焼き討ちでは残虐の限りを尽くしたそうだ。焼き討ちを織田信長に命ぜられた明智光秀は、そのあと、廃墟になったこの地の平定を任せられた。明智光秀が先頭を切って焼き討ちして、その後の処理を任せられるという残酷な仕打ちだった。実は明智光秀は信心深かったので、自身で焼き討ちしたお寺を再建し、坂本の町を再興し、琵琶湖湖畔に築いて住まいとした。結局、比叡山焼き討ちをきっかけに坂本の住人になった。

当時の比叡山は延暦寺も衰退していたといい、仏門の中心は琵琶湖湖畔の坂本にあった。お寺の坊さんのふりをした堕落した荒くれ者が多かったらしい。

坂本の復興に尽力を尽くしたのだ。

明智光秀一族のお墓もこの奥にあります。雨が降り出してきて、行かなかったのが悔やまれます。信長暗殺で時代の悪者になった明智光秀の心を鎮めた空気が今でも残っています。信長、秀吉、家康が歴史的にも当時も華やかに脚光を浴びたので、この坂本の地が影のように忘れ去られたのはむべなるかなです。影のような土地になったのは明智光秀の霊が今でも漂っているからでしょう。

比叡山の本拠地にもなったぐらいなので、町並み全体が荘厳です。私は京都や山の上の比叡山延暦寺よりもビリビリした高貴な感じをいだいた。

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おそらく、明智光秀が信長謀反を起こしたその時から、坂本は日の目を浴びることがなかったのだろう。

その暗さと密かな栄華を感じる町です。

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こちらは観光客の多い比叡山延暦寺の境内。

比叡山は大きくて巡回バスまであります。バスにでも乗らなきゃ山全体に点在するお堂を見て回れません。

それくらい広いし、見るべきものの数が多い。

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これだけ見たら、京都市内のお寺周りと変わりません。比叡山もハズレのお堂は雰囲気があるし、行くべきところです。

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今でも修行中のお坊さん(山伏)に会えます。

1000日業をやっていたりしますから。一瞬時代がわからなくなるようなところがあります。

比叡山まで来たら、ぜひそれを感じて欲しいですね。比叡山の全体に庵が散らばっています。

それと坂本の町ははずせません。京都以上にパワースポットを感じます!

ぜひ坂本の街をご覧下さい。日本史で忘れ去られたというより、日本史を作った権力に消された町が残っています、息を殺して明智光秀の霊が生きています。

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明智光秀が秀吉との戦で戦死したという歴史を疑う資料がいくつもある。後年に徳川3代に渡って仕えた天海僧正との関連性を言われている。天海僧正が何者かは今では確証が取れませんが、徳川家康と明智光秀のあいだでなにか密約があったか、気心が通じたものがあったとは考えられます。徳川家光が明智家の血を引いている可能性が高い。本能寺の事件後、天下分け目の関ヶ原の戦いの後、徳川の明智一族への処遇を考えれば、おのずと全体が見えてくる。びっくりすることに、徳川の中に明智一族の血が濃くなっている。

私はこの方の推理、読み解きを推薦します。いずれにしても、表面の歴史の裏に面白い真実が隠されていると思う。そうでなければ坂本の、あのように豪壮な町の説明がつかない。坂本東照宮は久能山東照宮の次に建てられた。その後、日光東照宮は坂本東照宮を見本に造られた。東照宮の名付けが明智家ゆかりの方と思われる天海僧正というのが、徳川家康と明智一族との密接度を物語る。日光東照宮の有名な彫り物、左甚五郎作「見ざる言わざる聞かざる」が何かを暗示しています。

http://jiyodan.exblog.jp/7958012/

明智光秀が謀反を起こした理由を考察しています

http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic33.html

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明智光秀のタブーは意外に簡単なことかもしれない。謀反を起こして主君を打ち取って徳川時代の教えに背いたからです。忠臣蔵は庶民にもてはやされたが、時の政権にってはモロバの刃。時期が違うだけです。謀反は政権にとって都合が悪いし、例外があると徳川家康とて言えなかったのだ。

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