ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【食】みのる寿司 [和食@室蘭]

2008年09月10日 22時00分16秒 | 外食記録2008
みのる寿司 [和食@室蘭][室蘭タウン]
2008.8.15(金)12:10(初)
注文 寿司定食 700円
 
・こちらの店は、室蘭市中央町にある文化センターから見て、隣にある10階建てくらいの背の高いマンションの裏手になります。表通りに面していないので見つけづらいかもしれません。

・これまでも何度か訪れたのですが、土日祝は休業日のためいつもやっていなかったところ、今回やっと入店できました。
・店内はカウンター約6席と座敷が5卓ほど。

・メニューは昼のみの定食メニュー(各700円)と、単品の握り寿司があるようです。出てきた食事は、握り寿司(5個)、細巻き(4個)、冷たい蕎麦に茶碗蒸しがついてなかなか豪華です。

・冷たい蕎麦。蕎麦というよりもそうめんに近いような細麺でした。

・ネタはマグロ赤身、イカ、ホッキ(?)、ホタテ、卵焼き、そして細巻の具はかんぴょう。
   
・ビックリするほど活きがよくて美味しいネタ! というほどでもなく、値段相応のお寿司です。

・茶碗蒸し。申し訳程度に栗の破片が入っていました。
・『寿司屋』というと高級なイメージがありますが、こちらのお店は、すぐそばの胆振支庁の職員さんなんかがちょっとお昼ご飯を食べに行くような、気軽な雰囲気です。

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【本】ヒンドゥー教 インド3000年の生き方・考え方

2008年09月10日 08時00分46秒 | 読書記録2008
ヒンドゥー教 インド3000年の生き方・考え方, クシティ・モーハン・セーン (訳)中川正生, 講談社現代新書 1469, 1999年
(HINDUISM, Kshiti Mohan Sen, 1961)

・ヒンドゥー(ヒンズー)教のコンパクトな入門書。第一部『ヒンドゥー教の本質と教え』、第二部『ヒンドゥー教の歴史』の二部構成。巻末に解説(橋本泰元)収録。
・自身、「ヒンズー教ってイスラム教とどう違うんだっけ??」という程度の認識しかありませんでした。本書を読んでみてもやはりピンと来ず、つかみどころのない宗教です。本書はいろいろな宗派を平行に列記していますが、より深い理解を得るためには、どこか一つの宗派に的を絞った本の方が良いかもしれません。
・「ヒンドゥー教には、キリスト教、イスラム教や仏教などの世界宗教と違い、まったく開祖というものがいない。ヒンドゥー教は、ゆうに5000年をこえる期間にわたり、インドに生まれたすべての宗教や文化を吸収、同化しつつしだいに発展してきた。したがって、この宗教には、キリスト教における「聖書」やイスラム教における『コーラン』などに相当するような、なにか宗教的論争が起きた際の最後の解決のよりどころとなる唯一絶対の権威ある聖典は存在しない。」p.3
・「前800年頃にできたとされる「ウパニシャッド」は、ブラフマン Brahman (梵)とアートマン Atman (我)の教説を中心にしている。ブラフマンは万物に偏在する「神」のことであり、アートマンは「自己」を意味する。「ウパニシャッド」は、このブラフマンとアートマンの同一説(梵我一如説)を主張し、それによれば、最高実在はすべての霊魂のなかに自己を顕現するとされる。」p.19
・「仏教以後のヒンドゥー教は、さまざまな傾向を示している。ヒンドゥー教の文献は、神にいたる三つの道、すなわち「知識による道(ジャニャーナ・マールガ)」、祭式などの「行為による道(カルマ・マールガ)」、ひたすら信仰を捧げる「信愛の道(バクティ・マールガ)」を強調する。」p.21
・「ヒンドゥー教の教義では、人間の理想的な一生は四つの段階 asrama (四住期)からなっているとされる。第一は学生期、すなわち訓練と教育の期間、第二は家住期、すなわち一家の主人となり社会で積極的に活動する期間、第三は林住期、すなわち俗世との縁を断って森に退く期間、第四は遊行期、すなわち隠者となる期間、の四つである。」p.24
・「ヒンドゥー教の理想は活動しないことだといわれるが、実際にはヒンドゥー教の聖典のかなりの部分で活動的生活の価値が称えられているのである。たとえば、『バガヴァッド・ギーター』には次のようにある。
 定められた行為を行なえ。行為は無為にまさり、あなたの身体は無為によって維持することはできない。(三・八)
」p.25
・「ヒンドゥー教は、神にいたる多くの道の存在を許容しているので、すべての信徒に強制できるような決まりきった宗教儀礼は存在しない。」p.42
・「神へいたる「多くの道」の概念がヒンドゥー教に無限の多様性をもたらしている。各宗派の信仰はそれぞれ異なっており、その宗教儀礼も違っている。ヒンドゥー教には、一元論、二元論、一神教、多神教、さらには汎神論にいたるまであり、まさにあらゆる型の宗教の一大実験場さながらである。」p.48
・「哲学者S・ラーダークリシュナンは次のように述べている。「ヒンドゥー教は、思想に関しては絶対的な自由を与えるが、行為については厳格な規律を課する。人は、文化と生活についてのヒンドゥー教の教えを受け入れるならば、たとえ有神論者、無神論者、懐疑論者または不可知論者であっても、すべて同じくヒンドゥー教徒でありうる。重要なのは行為であり、信仰ではない」。」p.50
・「事実、ヒンドゥー教にみられる、おそろしく多様な信仰や儀礼の間にみられる一致点は、無私の奉仕、世俗的な欲望を捨てること、正直、愛などの行為の根本的規範を信じることであった。すなわち、クリシュナの説く「すべての生きものを憎まず、友情をもち、憐れみ深く、 "私のもの" および "私" という考えを捨て、苦楽にに左右されず、忍耐強くあれ!」(『バガヴァッド・ギーター』12・13)という言葉を信じることである。」p.52
・「ヒンドゥー教の神は、全知全能でかつ世界に偏在しており、各人に対してそれぞれ異なった姿で現れる。神への道は多数あり、おのおのが他の道と同等に正しい。神についての観念が一見矛盾しているようにみえるのは、実は同じ最高実在が無限な姿をもっているということを意味することにほかならない。」p.53
・「「ヴェーダ」には、次の四種がある。(一)『リグ・ヴェーダ』 Rg-Veda、(二)『ヤジュル・ヴェーダ』 Yajur-Veda、(三)『サーマ・ヴェーダ』 Sama-Veda、(四)『アタルヴァ・ヴェーダ』 Atharva-Veda である。」p.62
・「「ヴェーダ」はその成立以来、長い間文字にされることがなかったので、それに関わる祭官や学者は、すぐれた記憶力をもっていなければならなかった。そのために古代において口承という習慣が起こり、「ヴェーダ」は師から弟子へ、世代から世代へと、暗唱により伝えられていったのである。」p.68
・「ヴェーダ宗教は、非常に煩瑣な供犠とともに、ブラフマンやアートマンを説く「ウパニシャッド Upanisad」の教説にしだいに取って代わられた。」p.73
・「「ウパニシャッド」によれば、人生の目的は自己の認識にある。万物に偏在する唯一独自のブラフマンを真に認識すれば、われわれはあらゆる束縛から解放され、真実在が有、識、歓喜であることを悟るであろう。そして、この悟りは、かつてのヴァーダ宗教が目指した天国への至福の願いをはるかに超越しているのである。」p.77
・「チャールヴァーカの警句の一つに有名なインドの諺になったものがある。それは、「生きているかぎり楽をせよ。借金をしてでも楽をせよ。一度死んでしまえば、もうそれっきりなのだから」」p.91
・「このように、唯物論、ジャイナ教」、仏教などの異端思想は、すべてヒンドゥー教の哲学や実践法のなかにそれぞれの痕跡を残している。」p.98
・「ガウダパーダは語る。
 滅亡もない、創造もない、束縛もない、解脱への修行もない、解脱への望みもない、解脱されることもない。これが絶対の真理である。
」p.123
・「各宗派の指導者たちは、それぞれ異なる学派に属しているが、多くのヒンドゥー教徒は、互いの寛容のおかげで激しい紛争や迫害が一度もなかったことをむしろ誇りとしているほどである。」p.126
・「宗教の違いは、単なる神を呼ぶ名前の違いにすぎない。誰でも同じ神に祈っているのである。」p.151
・「人間の数と同じだけの宗派がある。神の創造は、それほどまでにも多様なのだ。各派の祈りは、多くの小川にも似て、大海のごときハリ(神)のなかへ、ともに流れ込む。」p.157
・訳者あとがきより「人間の生きる意味や目的、本来の自己の発見、魂の救済、自然環境や他の生物たちとの調和的関係、死後のこと、そして神と人間の関係など、ヒンドゥー教は人生観、世界観にかかわる全局面、全領域において根源的な問いかけを発している。」p.194
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