愛の渇き, 三島由紀夫, 新潮文庫 み-3-3(335), 1952年
・三島由紀夫の作品を読むたびに、いつも何かしら驚かされるものですが、当作においてその衝撃度合はここまで読んだ中でNo.1だと思います。「20代にしてこんな作品が書けるものなのか」 一般的には『○○賞』受賞作がその代表作として紹介されることが多いですが、ここまで同著者の著作を十冊ほどしか読んでいないところで、「この小説が代表作でいいんじゃないの」と思わせる作品です。「こんなペースで書いて最後までもつわけがない」という文章の密度の濃さが、結局最後まで持続してしまうところが一番の衝撃。書き出しから最後の句まで切れ目の無い "一本の文章" を連想させます。解説の「最も纏った」はこれを指しての言葉なのでしょうか。
・「雨が霽(は)れた。悦子は首をめぐらして、雲間から放たれる数条の光りをじっと見戌(みまも)った。光は大阪郊外の住宅街の群落の上に、さしのべられた白い無力な手のように落ちていた。」p.9
・「素足で歩いては足が傷ついてしまう。歩くためには靴が要るように、生きてゆくためには何か出来合いの「思い込み」が要った。」p.21
・「彼女は二本のかよわい縄、紺と茶いろのかよわい縄にすがって、何か不可解な、でぶでぶした、真暗な、暗澹たる軽気球のような「明日」にぶらさがって、何処へ行こうとするのか考えない。考えないことが悦子の幸福の根拠であり、生存の理由であった。」p.30
・「しかも彼女が希ったのは、並一様の死ではなくて、もっとも時間のかかる、もっとも緩慢な死であった。」p.36
・「悦子はあのときこう考えたようにおぼえている。 『私は良人を焼きにゆくのではない。私の嫉妬を焼きにゆくのだ』 ……しかし、良人の屍を焼いたからとて、彼女の嫉妬を焼いたことになろうか。嫉妬はむしろ良人からうつされた病毒のようなものだ。それは肉を犯し、神経を犯し、骨を犯した。嫉妬を焼こうとすれば、彼女自らも、あの溶鉱炉のような建物の奥深く棺について歩いてゆくほかはない。」p.38
・「見栄坊の良輔はなお同僚のあいだに凡庸な幸福を装った。悦子は待つ。待ちつづける。彼はかえらない。彼がかえって家でめずらしくすごす夜、悦子は一度でも彼を詰り彼を責めたことがあったろうか。彼女は悲しげな目で良人を見上げるだけだ。この牝犬のような目、無言の悲しげなこの目が、良輔を怒らせた。妻のもっているもの、彼女の手が乞食の物乞う手に似、その目が乞食の目に似て来たほど妻の待っているもの、……それが良輔に、生活のあらゆる細部(デテイル)を剥ぎとられて醜い骨格だけになった夫婦関係の索漠と恐怖とを嗅ぎとらせた。」p.40
・「……高熱にうなされて、胸もあらわに横たわった良人は、死の巧者な技巧にあやなされ、花嫁のように呻いた。脳を犯された最後の数日には、突然上半身を体操のように起して、乾き切った舌をのぞかせて、歯齦からにじみ出る血でよごれた赭土(あかつち)いろの前歯をむきだしにして、大声で笑った。」p.42
・「病気とは、そもそも生の昂進ではないのか。」p.48
・「……もし理性さえ失くせるものなら、私はこう叫んだかもしれはしない。 「はやく死んでしまえ! はやく死んでしまえ!」」p.61
・「人生が生きるに値いしないと考えことは容易いが、それだけにまた、生きるに値いしないということを考えないでいることは、多少とも鋭敏な感受性をもった人には困難であり、他ならぬこの困難が悦子の幸福の根拠であったが、彼女にとっては世間で「生甲斐」と呼ばれるようなもの、――つまり、われわれは生きる意味を模索し、なおそれを索(もと)め得ないでいるあいだも、とにかく生きているのであり、この生の二重性を、求め得られた生の意味の遡及によって、統一しようとする欲望がわれわれの生の本体だとすると、生甲斐とはたえず現前するこの統一の幻覚にほかならないのであるが――、そういう意味の「生甲斐」と呼ばれるようなものは、悦子には縁もゆかりもない代物だった。」p.108
・「「癖になった流産みたいに、癖になった失恋というものがあるもんだよ。神経組織か何かの一部に癖がついちまって、恋愛するたびにきまって失恋する破目になるんだよ」」p.138
・「『電話。あんなものを見るのもずいぶん久しぶりのような心地がする。人間の感情がたえずその中を交錯するのに、それ自身はただ単調なベルの音を立てる事しかできない奇妙な機械。あれは自分の内部を、あれほどさまざまな憎悪や愛や欲望が』とおりすぎることで、すこしも痛みを感じることがないのかしら。』」p.202
・「誰もあたくしを苦しめてはいけませんの。誰もあたくしを苦しめることなぞできませんの」 「できないと誰が決められる」 「私が決めます。私は一旦決めたことを、決して枉(ま)げはいたしません」」p.228
●以下、解説(吉田健一)より。
・「これは三島由紀夫氏の作品の中でも、最も纏ったものの一つである。」p.232
・「前に余裕という言葉を使ったが、余裕ということの反対が何であるかをここで考えてみることは無駄ではない。生きているのがせいぜいであれば、人間は生きていることについて考える余裕はない。したがって、人間が生きものであるということに興味を持つこともなければ、ましてそれを言葉で描写しようという気も起さない。小説は、それを書くことも読むことも含めて、すべて文化の名に値するものと同様に、余裕の産物なのである。三島氏はその小説の世界に、まずこの余裕を設定している。」p.233
・「何かの抵抗がなければ芸術作品は生れないと言ったのはヴァレリーであるが、抵抗がなければ、人間は自分が生きているという実感を持つこともできないのである。それは生きるということそれ自体が、絶えず何かの抵抗を求めることであることも意味している。」p.236
?いんしん【殷賑】 活気があってにぎやかなこと。また、そのさま。繁華。
?ならずもの【破落戸】品行の悪い者。また、定職がなく、悪事をして歩きまわる者。無頼漢。ごろつき。 2 生計が思うようにならない者。
・三島由紀夫の作品を読むたびに、いつも何かしら驚かされるものですが、当作においてその衝撃度合はここまで読んだ中でNo.1だと思います。「20代にしてこんな作品が書けるものなのか」 一般的には『○○賞』受賞作がその代表作として紹介されることが多いですが、ここまで同著者の著作を十冊ほどしか読んでいないところで、「この小説が代表作でいいんじゃないの」と思わせる作品です。「こんなペースで書いて最後までもつわけがない」という文章の密度の濃さが、結局最後まで持続してしまうところが一番の衝撃。書き出しから最後の句まで切れ目の無い "一本の文章" を連想させます。解説の「最も纏った」はこれを指しての言葉なのでしょうか。
・「雨が霽(は)れた。悦子は首をめぐらして、雲間から放たれる数条の光りをじっと見戌(みまも)った。光は大阪郊外の住宅街の群落の上に、さしのべられた白い無力な手のように落ちていた。」p.9
・「素足で歩いては足が傷ついてしまう。歩くためには靴が要るように、生きてゆくためには何か出来合いの「思い込み」が要った。」p.21
・「彼女は二本のかよわい縄、紺と茶いろのかよわい縄にすがって、何か不可解な、でぶでぶした、真暗な、暗澹たる軽気球のような「明日」にぶらさがって、何処へ行こうとするのか考えない。考えないことが悦子の幸福の根拠であり、生存の理由であった。」p.30
・「しかも彼女が希ったのは、並一様の死ではなくて、もっとも時間のかかる、もっとも緩慢な死であった。」p.36
・「悦子はあのときこう考えたようにおぼえている。 『私は良人を焼きにゆくのではない。私の嫉妬を焼きにゆくのだ』 ……しかし、良人の屍を焼いたからとて、彼女の嫉妬を焼いたことになろうか。嫉妬はむしろ良人からうつされた病毒のようなものだ。それは肉を犯し、神経を犯し、骨を犯した。嫉妬を焼こうとすれば、彼女自らも、あの溶鉱炉のような建物の奥深く棺について歩いてゆくほかはない。」p.38
・「見栄坊の良輔はなお同僚のあいだに凡庸な幸福を装った。悦子は待つ。待ちつづける。彼はかえらない。彼がかえって家でめずらしくすごす夜、悦子は一度でも彼を詰り彼を責めたことがあったろうか。彼女は悲しげな目で良人を見上げるだけだ。この牝犬のような目、無言の悲しげなこの目が、良輔を怒らせた。妻のもっているもの、彼女の手が乞食の物乞う手に似、その目が乞食の目に似て来たほど妻の待っているもの、……それが良輔に、生活のあらゆる細部(デテイル)を剥ぎとられて醜い骨格だけになった夫婦関係の索漠と恐怖とを嗅ぎとらせた。」p.40
・「……高熱にうなされて、胸もあらわに横たわった良人は、死の巧者な技巧にあやなされ、花嫁のように呻いた。脳を犯された最後の数日には、突然上半身を体操のように起して、乾き切った舌をのぞかせて、歯齦からにじみ出る血でよごれた赭土(あかつち)いろの前歯をむきだしにして、大声で笑った。」p.42
・「病気とは、そもそも生の昂進ではないのか。」p.48
・「……もし理性さえ失くせるものなら、私はこう叫んだかもしれはしない。 「はやく死んでしまえ! はやく死んでしまえ!」」p.61
・「人生が生きるに値いしないと考えことは容易いが、それだけにまた、生きるに値いしないということを考えないでいることは、多少とも鋭敏な感受性をもった人には困難であり、他ならぬこの困難が悦子の幸福の根拠であったが、彼女にとっては世間で「生甲斐」と呼ばれるようなもの、――つまり、われわれは生きる意味を模索し、なおそれを索(もと)め得ないでいるあいだも、とにかく生きているのであり、この生の二重性を、求め得られた生の意味の遡及によって、統一しようとする欲望がわれわれの生の本体だとすると、生甲斐とはたえず現前するこの統一の幻覚にほかならないのであるが――、そういう意味の「生甲斐」と呼ばれるようなものは、悦子には縁もゆかりもない代物だった。」p.108
・「「癖になった流産みたいに、癖になった失恋というものがあるもんだよ。神経組織か何かの一部に癖がついちまって、恋愛するたびにきまって失恋する破目になるんだよ」」p.138
・「『電話。あんなものを見るのもずいぶん久しぶりのような心地がする。人間の感情がたえずその中を交錯するのに、それ自身はただ単調なベルの音を立てる事しかできない奇妙な機械。あれは自分の内部を、あれほどさまざまな憎悪や愛や欲望が』とおりすぎることで、すこしも痛みを感じることがないのかしら。』」p.202
・「誰もあたくしを苦しめてはいけませんの。誰もあたくしを苦しめることなぞできませんの」 「できないと誰が決められる」 「私が決めます。私は一旦決めたことを、決して枉(ま)げはいたしません」」p.228
●以下、解説(吉田健一)より。
・「これは三島由紀夫氏の作品の中でも、最も纏ったものの一つである。」p.232
・「前に余裕という言葉を使ったが、余裕ということの反対が何であるかをここで考えてみることは無駄ではない。生きているのがせいぜいであれば、人間は生きていることについて考える余裕はない。したがって、人間が生きものであるということに興味を持つこともなければ、ましてそれを言葉で描写しようという気も起さない。小説は、それを書くことも読むことも含めて、すべて文化の名に値するものと同様に、余裕の産物なのである。三島氏はその小説の世界に、まずこの余裕を設定している。」p.233
・「何かの抵抗がなければ芸術作品は生れないと言ったのはヴァレリーであるが、抵抗がなければ、人間は自分が生きているという実感を持つこともできないのである。それは生きるということそれ自体が、絶えず何かの抵抗を求めることであることも意味している。」p.236
?いんしん【殷賑】 活気があってにぎやかなこと。また、そのさま。繁華。
?ならずもの【破落戸】品行の悪い者。また、定職がなく、悪事をして歩きまわる者。無頼漢。ごろつき。 2 生計が思うようにならない者。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます