ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】サブリミナル・マインド 潜在的人間観のゆくえ

2009年07月28日 22時02分49秒 | 読書記録2009
サブリミナル・マインド 潜在的人間観のゆくえ, 下條信輔, 中公新書 1324, 1996年
・「人間の無意識世界」をテーマにした東大教養学部ほかでの講義録をまとめたもの。他の文献の単なる焼き直しではなく、オリジナリティの高い内容で、知的好奇心をツンツン刺激され、更には一部戦慄してしまうような事実まで。心理学に興味はあるが、どの入門書を読んでもありきたりで物足りない、という方にはぴったりではないでしょうか。ただし入門書として読んでしまうと少々レベルが高く、もて余してしまうかもしれません。入門書と専門書の橋渡し的な位置にある本だと思います。
・本書を読んで、"人間" に対する見方がちょっと変化した気がします。それを読む人間の価値観を変えてしまう、"力" のある本。人間の無意識世界に触れてみたい方はどうぞ。
・ここまでしっかりした内容の本であれば、索引まで欲しかった。
・「それでもあれこれと探し歩き、考えあぐねたあげくにたどり着けたのが、先のドグマ――「人は自分で思っているほど、自分の心の動きをわかってはいない」――だったわけです。」p.6
・「さて、私がこの本でこれから述べようとすることは、たいへん認めにくい、やっかいな主張なのです。それは、こんなことです。まず揺るがしがたい事実として、最前線の人間科学は、進めば進むほど、心の潜在的過程の存在をあらわにする。ところがこの潜在的認知過程の考え方は、現代生物学のほかの決定論的潮流ともあいまって、先の機械論的考えに加担し、人間の自由意志の尊厳と、それにのっとった社会の諸々の約束ごとを、根底からくつがえしかねない。とりわけそれは倫理的に困難な問題を、私たちにつきつけている……。」p.7
・「私のイメージする「潜在的な認知過程」にもっとも近いのは「暗黙知」という概念です。伝統的な技能・芸能や武道などの鍛錬でしばしばいわれるように、熟達者がある種の技能を実際におこなって見せることはできても、その技能をことばで客観的に表現しがたいということがよくあります。また、ある事柄を知っているという自覚なしに知っているという場合もあります。このような潜在的で無意識的で無自覚的な技能や知識(知恵)をまとめて「暗黙知」といいます。」p.10
・「そしてもっと大切なのは、暗黙知と明証的な知とは互いに密接に作用しあっていて、それが人間の心のはたらきを人間独自のものにしているということです。この認識が、崩壊する二十世紀の人間観の後に、かろうじて私たちを救う新しい人間像を準備することを願いたいと思います。」p.15
・「認知的不協和理論については、それだけで一冊の本となるようなテーマなので深入りを避けますが、その骨子だけを要約しておきましょうか。――個人の心の中に互いに矛盾するようなふたつの「認知」があるとき、認知的不協和と呼ばれる不快な緊張状態が起こる。そこで当然、それを解消または低減しようとする動機づけが生じる。しかし多くの場合、外的な要因による「認知」のほうは変えようがないので、結果として内的な「認知」のほうが変わる。つまり態度の変容が起こる(具体的には、たとえばものや作業に対する好嫌の感情が変化する)。以上がその要点です。」p.24
・「わずかな報酬のほうがかえって仕事そのものの魅力を増すというこの効果は、「不十分な正当化の効果」とも呼ばれています。一ドルがつまらない作業を正当化するには十分ではなかったので、そのぶんを補おうとするかのように態度の変化が生じたという意味でしょう。」p.24
・「特に自己知覚理論では、自分についての無意識的な推論を他人についての推論とほぼ同じ過程だとみなしてしまう点に、最大の洞察があります。極言すれば、自分はもうひとりの他人であるかもしれないのです。」p.31
・「つまり、自己知覚と他者知覚との間には、手がかりの与えられ方に関する程度の差こそあれ、本質的な違いはない、という結論に帰り着きます。やはり、自分はもうひとりの他人である。その内的過程は隠されていて、推論されるほかはない。しかもこの推論過程は無自覚的である……。」p.33
・「それは認知的不協和や自己知覚に関する研究に基づくものでした。  その新しい考え方というのをもう一度復習しておくと、だいたい次のようにまとめられるでしょう。「自己に対する内的な知識はきわめて不完全である。それは無意識的な推論によって補われているものであり、極言すれば自分とはもうひとりの他人であるにすぎない」」p.37
・「このあたりの事情を、ジェームズは次のような文章で簡潔に要約しています。「興奮するようなできごとを知覚すると、ただちに身体に変化が生じる。そしてこの変化に対するわれわれの感じ方(feeling)が情動(emotion)である」(ジェームズ、1884年)」p.40
・「少しごたごたしたので、まとめておきましょう。まず常識的に考えられている通り、情動経験は感覚刺激に依存します。しかしまた顔筋の変化=表情と情動経験の間には連合-相関関係があり、この関係は表情の変化が教示や演技による場合にも変わりません。つまり感覚刺激なしに教示や演技によって表情を作った場合ですら、このような強い連合関係のために、情動の経験が想い起こされてしまいます。というよりむしろ、実際に経験されてしまうというわけです。」p.44
・「時間的生起順序・因果関係を承認しにくいのはなぜかというと、これらの理論が、本人も自覚的にアクセスできない意識下の過程の存在を示唆しているからでしょう。単純化して図式的にいってしまうなら、「身体的過程→潜在的認知過程→自覚的情動経験」という関係が重要なのです。  今回の講義全体を通じて私が提案しようとする「人間科学のセントラル・ドグマ」は、ある一側面からいうと次のようなことです。つまり、知覚から行動に至る無自覚的な経路がより基本的で、意識的な経験はこうした無自覚的プロセスに対する、いわば後づけの「解釈」にすぎません。」p.46
・「この実験から、人は自分の主観的な情動の経験を「決定する」ために、(一)自分の内的状態と、(二)その状態が生じている環境とを評価することがわかります。」p.50
・「つまり、興奮を外的要因に帰属できない場合には、その分だけ情動経験も高められるというわけです。」p.53
・「このような厖大な情報処理のすべてをいちいち意識していたら、私たちの心はパンクしてしまうでしょう。だから脳の情報処理が潜在的であり、無意識的なのは当然です。そのおかでで私たちの心はパンクせずにすんでいるのです。」p.67
・「人の心とは、完全には統合されていない多次元的なシステムなのです。つまり、心とはひとつの心理学的実体ではなくて、いくつかのサブシステムからなる社会学的な実体なのです。」p.80
・「おおげさなようですが、これは私にいわせれば、今日という時代の人間観にほとんど反しています。たとえば選挙で、なぜひとり一票と決まっていて、誰も異論を唱えないのでしょうか。判断や評価の主体=基本単位として「個人」を考え、「統合された単一の自己」を基本ユニットとして民主主義の理念を構成することに、誰も疑念を持っていないからでしょう。」p.81
・「最後に、前項までで述べた自己知覚・帰属・情動などの社会心理学の分野での諸知見とつきあわせてみると、共通に浮かび上がるわれわれ自身の人間像は次のようなものになりましょう――「人は、自分の認知過程について、自分の行動から無自覚的に推測する存在である」と。」p.
・「記憶とはうらはらの「忘却」、これがまたミステリアスなのです。私たちはよく、いったん忘れたことを「思い出し」ます。しかしそもそもいったん失った記憶を取り戻すなどということが、どうして可能なのでしょうか。」p.116
・「霊能研究を実証的証拠などというと、驚かれますか。霊的力の存在する証拠とされた実験のうちで、後から考えると実は潜在記憶のはたらきを示唆すると思われるものが、案外多いのです。「前生の記憶」などと称しているものなどは、その典型でしょう。」p.118
・「以上のような無意識的知覚に関する情報処理的説明で、重要なポイントは次の点です。つまり私たちはとかく見えたか見えなかったか、知覚できてかできなかったかというふうに、オール・オア・ナッシングに捉えがちですが、実際にはそうではありません。知覚とは、複数のレベルから成り立っている現象だと考えるべきなのです(クラッキー)。「見えた」あるいは「あった」という反応は、知覚の測定可能な出力が複数あるうちの、特別なひとつであるにすぎないというわけです。」p.167
・「もっとはっきり言いましょうか。世の中の「超能力」現象の一部は、人間のこの無知さ、特に自分の心の底で起こっている潜在的過程についての無自覚と誤帰属によって、相当程度まで説明できるのではないでしょうか。相当程度、と今言いましたが、私たちが通常予測するよりももっとずっと大きい程度まで、と私はにらんでいるのです。人間は、自分が無知で無力な領域ほど神秘的な気分になり、超常的な現象を信じたくなります。この原則はここでも当てはまります。そして無知で無力な領域の最たるものは、自分自身の精神なのです。」p.177
・「私たちは同じテレビ・コマーシャルを、多いときには何回ぐらい反復して見せられていると思いますか。その際に、繰り返し見せられるほど機械的に好感度も増大してしまうという結果自体恐るべき事実です。その上、「これはコマーシャルで見た」というはっきりした再認記憶がある場合よりも、ない場合のほうが効果が大きいという可能性が指摘されているわけです。」p.207
・「とっさの反応はできますが、あらためて問われたり、自問すると混乱してしまう。このことは、何を意味しているのでしょうか。意図・自覚・予期・抽象的な概念・言語的なラベルづけ。こうした高次の機能の前提となる方向の認知過程と、とっさの反射的な防御反応に直結している視覚情報処理とは、レベルが違うのではないでしょうか。そしてさかさめがねへの順応のような、極端な適応的変化の過程では、その適応の速さに差があって、そのためにこのような食い違いが起こるのではないでしょうか。」p.230
・「ここで連想するのは、心理学者渡辺茂によるハトの弁別実験です。彼はモネとピカソの何枚かの作品を使って、ハトがこのふたりの作家の絵を正しく見分けることができるようになるまで訓練しました。その後、今まで一度も見せたことのないモネやピカソの作品を見せても、ハトはそれぞれの作品の作者について正しい判断ができたというのです。私たちが通常考えている美術の鑑賞眼などというものも、意外に単純な視覚的特徴の弁別に基づいているのかもしれないと思わせる例です。」p.240
・「「私が手を上げる」から「私の手が上がる」を差し引くと何が残るか。――この有名な問いを発したのは、哲学者ヴィトゲンシュタインでした。「手を上げよう」という自発的な意志が残る、というのが大方の考えでしょう。しかし、「自発的意思」とはいったい何なのか。」p.242
・「随意運動、あるいは意図と目的による行動の組織化といった高次機能は、従来は大脳皮質のはたらきと考えられてきましたが、実は小脳などの低次脳と脊髄レベルでも可能であることが、こうした研究から証明されました。極言すれば、脊髄にはある限定された「意識」が存在するとさえいえそうです。」p.252
・「そもそも今日の現代人たる私たちは、自分たちを何者だと思って暮らしているのでしょうか。中世とも近世とも異なる、現代人としての私たちの固有の「人間」像とは、どのようなものでしょうか。つまり現代人の人間観を特徴づけ、それに基づいて私たちが行動しているところの、規範的な前提とはなんでしょうか。(中略)心理学や人間科学が、同時代の人間観を突き崩し、対決するような場面も、ときにもあるかもしれないと私は思っています。」p.270
・「そんな中で奇怪な現象が起きつつあります。人を普通に拳銃で殺せば間違いなく重い罪に問われますが、十人以上連続的に殺して、その死体とセックスするか、食べるか、それとも皮を剥いで飾るか、とにかくできるだけ残虐で常軌を逸した行動をとればとるほど、無罪を勝ち取るチャンスも広がるのです。」p.287
・「世界的に男性の精子の減少が報告され、大都市を中心に、性犯罪や性の逸脱行動が増加しているといわれています。これについてすぐに連想する興味深い動物実験があるのです。  密閉したビルディングの中でネズミを飼います。食料と水を無限に与え、かつ伝染病など起きないように、衛生管理をきちんとすれば、個体数は理論的には無限に近いところまで増大すると予想できますね。ところが実際にはそうはなりません。(中略)何が起こっているのかと、内部のネズミの生態を調べたところ、面白い発見がありました。まず、妊娠一回あたりのこどもの数が激減していたこと。それから不妊、不能、子殺し、同性愛など、個体密度を結果において下げるあらゆる現象が多発していました。自然界で低い密度で生活している群れでは、いずれもほとんど見られない徴候である点に注意してください。極度の社会的ストレスが、性ホルモンの調節などに重大な支障をきたしたのです。」p.290

《チェック本》
・バラード「識閾下の人間像」(『終着の浜辺』創元SF文庫 収録)
・立花隆『文明の逆説』講談社文庫

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