ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】内村鑑三

2009年10月27日 22時00分15秒 | 読書記録2009
内村鑑三, 鈴木範久, 岩波新書(黄版)287, 1984年
・内村鑑三の生涯とその思想の変遷について。単なる事実の羅列ではなく、その前後関係の "流れ" が見える書き方で著者の豊富な知識とその力量が覗える。鑑三は思いのほか札幌と縁が深かった事を知り、親近感が湧いた。
・「鑑三という人間は「忠君愛国」や「富国強兵」への出来高を尺度に人間をはかることに、もっとも疑問を抱き、信仰の立場から、それとは正反対の人間観を強く唱えた人である。現代社会は、産業界のみならず広く教育などの分野にまで、あいかわらず根強い成績主義、行為主義が幅をきかせ、強まっている。鑑三の思想が、今日ほど痛切に要求される時代はない。」p.ii
・「鑑三の名前の由来については、三たび自己を鑑みる意味で父宜之が名づけたといれている。あるいはまた、中国の唐書魏徴伝に出てくる三鑑、すなわち人の心身を正しくする鏡と歴史の鏡と人の鏡との三つの鑑にちなむことかもしれない。」p.6
・「鑑三が、後年「先生はなぜ帝大にはいらなかったのですか」との質問に応じて「金がなかったからさ」と呵々大笑しながら答えた話が伝えられている。」p.14
・「クラークが遺したものの一つに禁酒禁煙の誓約があるが、この方は鑑三も入学直後に署名している。それは東京で結んだ立行社の約束となんら矛盾するものでもなかったからである。しかし、キリスト教への入信には頑強に抵抗した。異国の教えであるキリスト教に入ることは、日本への裏切行為になると思われたのだった。  その鑑三もついに同年12月、クラークの遺した「イエスを信ずる者の誓約」に署名し、キリスト教に入信することになった。鑑三が署名したのは、必ずしも、キリスト教の信仰にひかれるところがあったからではなかった。第一期生の手ごわい勧誘にあい、第二期生が太田稲造以下次々と署名したこと、とりわけ同室の親友宮部の署名が響いていた。」p.16
・「もしペンシルヴァニア大学に進むならば、医学と生物とを学び、医師になる道が開かれる。アマスト大学に進むばあいは、シーリー総長の指導のもとに伝道者となることである。鑑三は、この両者のいずれを選ぶべきか、迷いに迷った。」p.32
・「鑑三の経歴を見るとき、官軍に対して佐幕派の藩士の家に生れ、東京大学ではなく札幌農学校に進み、米国では、ハーヴァード大学でなくアマスト大学に学ぶコースをたどる。  ここには一つの共通点を見出すことができる。官軍、東京大学、ハーヴァード大学を陽とするならば、佐幕派、札幌農学校、アマスト大学は陰である。もちろん、後者といってもエリートであることに変りないが、それでも前者のコースが華やかな表の街道であることと対照すると、やはり暗い陰のある裏の街道である。前者のコースを悠々と行く能力を備えた鑑三が、その人生において、後者の道を歩み、またそれを選んだことは、他の陰を帯びて人生を歩む人間への共感を育てることになったのではないか。」p.36
・「アマストで学ぶようになってからも、心内の自己中心的傾向、つまり罪の克服をめぐる闘いは依然として継続していた。ところが、ある日、シーリーは鑑三に向かって、次のような言葉を投げかけた。  「内村、君は君のうちをのみ見るからいけない。君は君の外を見なければいけない。何故おのれに省みる事を止めて十字架の上に君の罪を贖いし給いしイエスを仰ぎみないのか。君の為す所は、小児が植木を鉢に植えてその成長を確かめんと欲して毎日その根を抜いて見ると同然である。何故にこれを神と日光とに委ね奉り、安心して君の成長を待たぬのか」(「クリスマス夜話=私の信仰の先生」)  この一言の示唆により、鑑三は回心を体験した。これまでわかりかけていたものが雲を払い、十字架のキリストの贖いの意味が、鑑三に明らかに示されたのだ。言いかえれば罪の克服ということは、人間の努力や道徳的な行為によるものでないことを覚らせられたのである。  この回心の体験は、鑑三の心の世界を一転して明るくした。5月26日の日記には「小鳥、草花、太陽、大気、――なんと美しく、輝かしく、かぐわしいことか!」との歓喜の目でみた自然の讃歌がみられる。」p.36
・「キリスト教はよいが、アメリカのキリスト教は駄目だ、というのが、宗教ショックを味わった鑑三の結論である。  キリスト教文明が、もはや頂点をすぎ、腐臭さえ漂わせている米国にいる間に、鑑三の新しい夢は、これからまだ造形を待つ素材のような日本に注がれた。」p.39
・「鑑三が、アマスト時代、その墓碑銘のためとして、愛用の聖書に書きとめた、あの有名な英文の言葉を掲げよう。
 I for Japan; 自分は日本の為に
 Japan for the World; 日本は世界の為に
 The World for Christ; 世界はキリストの為に
 And All for God. 凡ては神の為に
」p.40
・「これらをみても、鑑三は、その英文欄を通じて、日本社会の不義不正、とりわけ、藩閥政府や上流社会、貴族、高官、金持、軍人などの私利私慾に筆誅を加え、社会の弱者の立場で発言していることがわかる。前半生の辛い体験を通じてようやく内面化されたキリスト教的価値体系にもとづく、人間観、世界観、国家観が、そのまま適用されたものだ。いわば思想の応用篇である。時代の支配的な人間観である単なる「富国強兵」的人間観への挑戦であった。」p.85
・「志賀真太郎の一生は、この晩年こそ仏の道に進んだが、若き日に出あった鑑三の教えにのっとって生きた一生といってよい。このように鑑三に傾倒した地方の出身者には、地域の文化、教育、福祉に尽くす一方、やがて産を失ないこの世的には没落していく人々がおおい。いわば「内村くずれ」である。この世の目には恵まれない一生をたどるのだが、「後世への最大遺物」で語られたように、それぞれ高尚な生涯を歩んだのだ。」p.106
・「こうしてみると、鑑三の「無」は、仏教思想でいう「無」に近いものである。ただの否定としての「無」でなく、対象を相対化し、究極的には、より高い次元での肯定を意味する「無」である。  鑑三の無教会主義キリスト教は、西洋のキリスト教を相対化の目でとらえたキリスト教であるといってよい。相対化といっても、決して、外側から一つの宗教としてつき放して見るのでなく、キリスト教の内側にとどまりながら主体的に相対化したものだ。」p.117
・「洗礼が望まれるときには夕立の雨でもよく、正餐にあずかりたいなら、野に出てそこに実っているブドウの汁でもよい、というのが、鑑三のサクラメントに対する基本的な考え方である。  『基督教徒の慰』では、教会についても、それは、人の手で作られた白壁や赤瓦のうちにあるだけではなく、自然そのものが神の家とされている。」p.118
・「要するに鑑三のいう無教会は、直接、聖書に参入したことにより、西洋のキリスト教のみを唯一のあり方とみるのに対し、そこから人工的な聖職者制、教職者の資格、礼典、建物などの制度、儀礼を取りはずそうとしたものである。教会から人工的要素の除去をはかる自然的な教会観である。」p.118
・「余は日露非会戦論者であるばかりでない。戦争絶対的廃止論者である。戦争は人を殺すことである。そうして人を殺すことは大罪悪である。そうして大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得ようはずはない。
   *  *  *  *
 世には戦争の利益を説く者がある。然り、余も一時はかかる愚を唱えた者である。しかしながら今に至ってその愚の極なりしを表白する。戦争の利益はその害毒を贖うに足りない。戦争の利益は強盗の利益である。これは盗みし者の一時の利益であって(もしこれをしも利益と称するを得ば)、彼と盗まれし者との永久の不利益である。盗みし者の道徳はこれが為に堕落し、その結果として彼はついに彼が剣を抜いて盗み得しものよりも数層倍のものを以て彼の罪悪を償わざるを得ざるに至る。もし世に大愚の極と称すべきものがあれば、それは剣を以て国運の進歩を計らんとすることである。
」p.134
・「鑑三の後半生に展開された最大の運動は、1918(大正7)年に開始される再臨運動である。」p.172
・「戦争に狂奔するヨーロッパ諸国のキリスト教にあいそをつかせたのとは対照的に、このころよりにわかに鑑三は、日本の法然や親鸞の信仰に親しみをみせる。」p.173
・「日本の浄土系信仰への接近とあわせ、この大正初期の鑑三に顕著に目立ち始める思想は「近代人」への批判である。「近代人」を鑑三は、このように定義している。  「近代人は自己中心の人である、自己の発達、自己の修養、自己の実現と、自己、自己、自己、何事も自己である」(「近代人」)  鑑三は「近代人」を、自我は発達しているが自己中心の人とみる。」p.174
・「それまでの鑑三の思想との相違は、次のようにまとめられるかもしれない。  鑑三は、それまでも神に導かれない人間の行為により、現世が改められ、平和がもたらされるとは、もちろん考えなかった。  従来は神に導かれた人間により、もしかすると、現世が改められ、平和がもたらされるという、栄光を見ることができるのではないかと思っていたのだ。ここで神の栄光をあらわす人間は、たとえ神の器として働いたにすぎなくても、その人に栄光のあらわれたことは認める立場だ。  ところが、再臨の思想では、いかなる人間でも、現世では神の栄光を、結局はあらわすことのできる存在とはみなされない。したがって人間は、どれほど信仰の厚い人でも一片の栄光すらあらわすものでなくなる。鑑三の達した第三の段階とはこの段階である。  この段階のもたらした思想こそ、人間を、それが現世的行為はいうまでもなく、信仰的な行為であっても、その多寡によって価値をつけない思想である。行為主義の否定の徹底である。鑑三の再臨進行は、聖書の見方や、講演の内容、運動の進め方に、やや批判される余地もあるにはあったが、行為主義を徹底的に否定した人間観のうえでは、その生涯でもっとも高くて深いところに達したものといえよう。」p.180
・「その思想を特徴づける最大の要因は、やはり、若き日に誓った二つのJ(イエスと日本)への献身である。このために鑑三は、ただの愛国主義者でもなければ、西欧的なキリスト教信徒でもなかった。西欧のキリスト教に対しては、それを相対化する目を「日本」からえた。愛国心に対しては「イエス」の目で、これを浄化してとらえた。」p.203

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