ローマ人の物語 17・18・19・20 悪名高き皇帝たち(一)(二)(三)(四), 塩野七生, 新潮文庫 し-12-67・68・69・70(7756・7757・7758・7759), 2005年
・ローマ人の興亡を描く超大作も中盤にさしかかる。初代皇帝アウグストゥスの跡を引き継いた、ティベリウス(在位 紀元14-37年)、カリグラ(37-41年)、クラウディウス(41-54年)、ネロ(54-68年)の四人の皇帝により帝政が軌道に乗り始めた時代。文庫版シリーズで初の四冊組でかなりの分量です。
・書中で指摘されているように、私も『ローマ皇帝』と言えば『ネロ』の名がまっ先に頭に浮かびますが、本編では「その他大勢の皇帝のうちの一人」といった地味な扱いを受けています。その『暴君』っぷりは、後の世のキリスト教徒によって創り上げられた歪められた像であるとのこと。
・書き抜きが多すぎて10000字の字数制限に引っかかるので、文字色を "青" にするHTMLタグは省略。こんな事は『神との対話 2』以来。
・「もともとからして「悪名高き皇帝たち」というタイトル自体が、彼ら皇帝たちとは同時代人のタキトゥスを始めとするローマ時代の有識者と、評価基準ならばその延長線上に位置する近現代の西欧の歴史家たちの「採点」の借用であって、これには必ずしも同意しない私にすれば、反語的なタイトルなのである。平たく言えば、悪帝と断罪されてきたけれどホント? というわけですね。なにしろ、鋳造技術でも金銀の含有率でも、四世紀の貨幣とは比較のしようもないくらいの「良貨」が流通していたのが、これら悪名高き男たちが帝位に就いていた時期なのであった。」一巻p.10
・「都在住の平民や軍団兵たちへの遺贈金まで列記した最後に、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスは、以後の帝国統治担当者たちへの政治上の遺言も書き遺していた。 「現在の帝国の国境線を越えての拡大は、すべきではないと進言したい」」一巻p.33
・「ティベリウスはわかっていたのだ。自分が継ごうとしているローマ帝国最高統治者の立場が、ローマの法則、ローマの伝統に照らせば、いかに不明瞭なものであるかがわかっていたのだった。」一巻p.38
・「ローマの皇帝に正式に就任するには、前任者が指名しただけでは充分ではない。元老院とローマ市民双方の、承認を必要としたのである。元老院では投票により、市民の承認のほうは歓呼によりというちがいはあっても、この二者の承認なしには皇帝位に就けなかった。中国やその他の国々の皇帝とはまったくちがう、ローマ帝国の統治権につきまとった特色である。 ローマの主権者は、あくまでも「S・P・Q・R」即ち、「ローマの元老院並びに市民」であったのだ。」一巻p.38
・「アウグストゥスが強調した「プリンチェプス」を字義どおりに受け取れば、「ローマ市民中の第一人者」にすぎない。公式な名称でもない。事実、発掘された碑文のどれにも、ローマ皇帝の別称としてでも銘記されたものはない。「第一人者(プリンチェプス)」という名称は、強大な権力を手中に収めることで「ただ一人が統治する政体」を構築したアウグストゥスの、隠れ蓑であったのだ。」一巻p.42
・「ある日の元老院で、七月がユリウス、八月がアウグストゥスと名づけられているのに倣って、九月をティベリウスとしようと提案した議員がいた。ティベリウスは自席から、矢のような一句を放ってそれをつぶした。 「『第一人者(プリンチェプス)』が十人を越えたときはどうするのか」」一巻p.51
・「アウグストゥスの後を継いだティベリウスに課された任務は、第一に皇帝の地位の確立による帝政の堅固化、第二に国家財政の健全化、そして第三は、北の防衛線をライン河で留めるか、それともエルベ河まで拡張するか、の戦略上の問題であった。」一巻p.106
・「政治亡命や人質を、ローマ人はこのように考えていたのである。ローマ人がこれらの人々を牢に入れたりして冷遇しなかったのは、いざとなれば使えるカード、であったからだった。」一巻p.148
・「皇帝に就任するにも元老院の承認が必要であるだけでなく、皇帝の後継者選びにも元老院の承認がないと実現不可、皇帝勅令でさえも暫定措置法でしかなく、恒久的な政策にしたいと思えば、これまた元老院の議決を必要とし、それがなければ法制化も不可というのが、アウグストゥスの創設したローマの帝政であった。ローマの皇帝とは、支那の皇帝を思い起こしていては理解不可能な存在なのである。ペルシアなどのオリエントの君主制ともちがう。ローマ的、という形容詞をつけるしかない皇帝なのであった。」一巻p.194
・「責任分担方式を採用すれば、当然のことながら、任務を託す人の人選が重要な問題になってくる。この面でのティベリウスは、ティベリウス嫌いで徹した歴史家タキトゥスでも、次のように書くしかなかった。 「いかなる皇帝でも、彼ほどに巧妙な人事をなしえた皇帝はいなかった」 ティベリウスが、適材適所と能力主義を貫いたからである。」一巻p.210
・「現代の研究者の一人は、次のラテン語の格言くらい、皇帝ティベリウスにふさわしい句もないのではないかと言っている。 「FATA REGUNT ORBEM! CERTA STANT OMNIA LEGE」(不確かなことは、運命の支配する領域。確かなことは、法という人間の技の管轄)」一巻p.213
・「税金は低く押さえられているかぎりはたいていの人はきちんと払うもので、徴税業務を民間の請負人に委託する方式を採用していた帝政ローマでは、徴税の公正を期すには、脱税よりも徴税のしすぎのほうを警戒する必要があったのである。」一巻p.215
・「カプリ隠遁を決行したティベリウスは、こう考えたのではあるまいか。帝国の統治の成果さえあげられるならば、どこにいても、どのような方法でやっても、同じことではないか、と。だがこれは、政治をする人間の思考ではなく、官僚の思考である。」二巻p.18
・「人間とは、主権をもっていると思わせてくれさえすればよいので、その主権の行使には、ほんとうのところはさしたる関心をもっていない存在であるのかもしれない。結果が悪と出たときにだけ、主権の行使権を思い出すというだけで。」二巻p.19
・「体力、知力、精神力ともに衰えた後のボケ状態で命を保つことを極度に嫌ったローマの指導者層に属す人々には、食を断って自ら死を迎える例は珍しくない。」二巻p.68
・「なぜ一人がすべてを考え行なわねばならないのか、という嘆きは、全てを一人で考え行ってきたきた人がしばしば陥る一時のスランプであって、この一時期のスランプを抜け出せば、その人は、吐露した自己憐憫など忘れたのかと思うほどのエネルギーで、再び「一人ですべてを考え行う」状態に復帰するのである。」二巻p.86
・「ローマ帝国は、タキトゥスのような共和政シンパがどう批判しようと、カエサルが企画し、アウグストゥスが構築し、ティベリウスが磐石にしたという事実ではまちがいない。」二巻p.90
・「紀元37年のカリグラくらい、すべての人々に歓迎されて皇位に登った人はいない。言い換えれば、敵なしの状態で帝国の最高権力者になった者は一人もいなかった。」二巻p.98
・「「無冠の帝王」とは、専制君主制に慣れたオリエント(東方)とはちがう歴史と伝統をもつオチデント(西方)を考慮したがゆえの、アウグストゥスが創設した「ローマ独自の皇帝」の形なのである。その「無冠」であるがゆえにかえって「有冠」の王よりも上位であることの意味を理解できなかったカリグラは、「冠」の有無のちがいに不満しかいだかなかったのであった。」二巻p.122
・「ギリシアやローマの神々が彫像で表現される場合は、上半身裸体で裸足の姿で現される。現実に存在した人物でも神格化された姿で表現したい場合や、ただ単に死後の作であることをしめしたい場合は、上半身裸体で裸足か、有名な『プリマポルタのアウグストゥス像』のように、甲冑姿でも裸足の姿で表現される。カリグラは、神格化されてもいずまた生きているにもかかわらず、それを実行したのだ。 上半身裸体で裸足で髪もひげもなにやらゼウスをまねて金色に染めた姿で元老院に現れたカリグラを見て、唖然とした議員たちは声もなかった。」二巻p.124
・「ローマ人の支配の基本精神は、帝政ローマ時代に生きたギリシア人のプルタルコスも言ったように、「敗者でさえも自分たちと同化する」ところにあった。敗者側の一民族であったユダヤ人だけが、同化することを拒絶したのである。勝者ローマとの同化にかぎらず、他民族との同化も拒絶していたのがユダヤ民族であったのだ。なぜか。 彼らの宗教であるユダヤ教が、それを許さなかったからである。ユダヤ民族にとっての憲法であるモーゼの「十戒」は、その冒頭に、ユダヤ人が犯してはならないことの第一として、「あなたはわたしの他に、何ものをも神としてはならない」とある。」二巻p.159
・「ローマ人は人間に法律を合わせ、ユダヤ人は法律に人間を合わせる、と言い換えてもよいかもしれない。」二巻p.162
・「しかし、「普遍」とは、それを押しつけるよりも「特殊」を許容してこそ実現できるものなのである。具体的には、ケース・バイ・ケースが最も現実的な方策ということになる。ローマ人はこの面でも、見事なまでにエキスパートであった。」二巻p.167
・「イエス・キリストの処刑も、イェルサレムの祭司たちで構成された法廷が死刑の判決を下し、当時のユダヤ長官のポンツィオ・ピラトがOKを与えたので実施されたのである。長官ピラトは祭司階級の圧力に屈し、手を洗うという象徴的なジェスチャーをすることで、あなた方(ユダヤ側)の決めたことだからわたし(ローマ側)は関知することではない言ってイエスの処刑にOKを出したのだった。それがもしも、ピラトがユダヤ側の圧力に屈せずに、自分が体現するローマの法に従って行動していたとしたら、イエスの十字架上の死は実現しなかったのである。」二巻p.177
・「だが、ギリシア人の移住とユダヤ人の移住では、根本的な差異があった。 ギリシア人は、何もない土地に新しく都市を建設し、そこを基地にして、手工業や通商業によって富を築くのである。反対にユダヤ人は、すでに存在し繁栄している都市に移り住み、手工業や通商業や金融業に従事して富を築くのであった。」二巻p.183
・「ティベリウスは、ユダヤ民族の特殊性を充分に理解していた。シリア総督クィリーヌスをつづけて重用したのも、そしてイェルサレムのユダヤ人を刺激しないためにあらゆる妥協策をとったのも、理解していた証拠である。だが、理解していたからこそなおのこと、特殊なユダヤ民族が普遍を目指すローマ帝国にもあたらす、危険性も熟知していたのだった。神の法にしか従わない人々と、人間の法によって律しようと努める人々と、どうやれば共存は可能か。」二巻p.186
・「しかしカリグラは、幸か不幸かモンスターではなかった。頭も悪くなかった。彼にとっての不幸は、いや帝国全体にとっての不幸は、政治(ポリテイカ)とは何かがまったくわかっていない若者が、政治(ポリテイカ)をせざるをえない立場に就いてしまったことにある。」二巻p.202
・「他の職業人に比べて政治家が非難されやすい理由の一つは、政治とは誰にでもやれることだという思いこみではないだろう。(中略)民を主権者とする政体とは、政治のシロウトが政治のプロに評価を下すシステム、と言えないであろうか。(中略)政治家が挑戦すべきなのは、政治のプロとしての気概と技能は保持しながら同時にシロウトの支持を獲得するという、高等な技なのである。」三巻p.10
・「クラウディウスの性格には、部下たちに畏敬の念を起こさせるところがなかった。言い換えれば、軽く見られがちであったということである。結果として、元奴隷の秘書官たちは、何をやってもかまわないと思ってしまったのだ。」三巻p.87
・「クラウディウスは、帝国の統治ないし運営が、非著名な史実、つまりはニュースにならない作業でささえられていることを知っていた皇帝であった。地道な財務を重要視する人にとっては、現状の正確な把握が欠かせない。クラウディウスは、国勢調査(チェンスス)の実施を決めた。」三巻p.99
・「皇帝クラウディウスは、祖国(パトリア)の理念を、イタリア半島内に留めることなく帝国ローマの全域に広げるとした、ユリウス・カエサルの精神(スピリット)を再興したのであった。」三巻p.138
・「古代人の奴隷に対する考えは、自分たちと宗教をともにしないがゆえにじぶんたちと同等になる権利をもたない人間、というのではなかった。戦争に敗れるとか、海賊に捕われるとか、または払えない借金のかたに取られるとか、でなければ奴隷の子に生れたとか、親に売られたとか、という「不運」に見舞われた結果、奴隷の身分に落ちた人々を指したのである。」三巻p.140
・「主人であったクラウディウスも、その元奴隷であったナルキッソスも、燃えつきたことでは同じであったのかもしれない。」三巻p.193
・「というわけでマルチ型に属する人々は、心の奥深くに常に不安を隠しもっている。自分は何もし遂げていない、という不安だ。この不安は、何かを行なう場合に度を越すことにつながりやすい。皇帝ネロも、この種の一人ではなかったかと思っている。一私人として見れば、不幸な男だった。」四巻p.10
・「皇帝に就任した当時、ネロは、16歳と10ヶ月でしかなかった。責任ある公職に就くのは30歳からとされていたローマでは、異例に若い皇帝の出現である。」四巻p.16
・「同時代のローマ人ならば、また同時代人でなくても帝国が存在していた時代のローマ人ならば、この項目をあげただけでそれらが意味するところを直ちに理解できたのである。しかし、われわれは、ローマ帝国がとうの昔に滅亡した二千年後に生きている。それゆえ、ローマ人には不必要だった解説が必要になるのも当然だ。」四巻p.18
・「同情(ミゼリコルディア)と寛容(クレメンティア)のちがいを説いた箇所で、そこではセネカは次のように言っている。 「同情とは、現に眼の前にある結果に対しての精神的対応であって、その結果を産んだ要因にまでは心が向かない。これに反して寛容は、それを産んだ要因にまで心を向けての精神的対応であるところから、知性(サピエンス)とも完璧に共存できるのである。」」四巻p.20
・「これこそ現代でもラテン語のVETO(ヴェトー)で通用する、拒否権をもっているからである。ゆえに、拒否権なしの常任理事国などは意味を成さない。つまり、拒否権は最強の権力なのだ。」四巻p.50
・「ネロには、問題の解決を迫られた場合、極端な解決法しか思いつかないという性癖があった。それは、彼自身の性格が、本質的にはナイーブであったゆえではないかと想像する。」四巻p.77
・「いずれにしても、これでネロは、母殺しに加えて妻殺しの汚名まで浴びることになった。」四巻p.112
・「戦争は、武器を使ってやる外交であり、外交は、武器を使わないでやる戦争である。コルブロは、このことを知っていた武人であった。」四巻p.144
・「放って置かないのが、キリスト教なのである。キリスト教の立場からすれば、放っては置けないのも当然だ。彼らが信ずる神は唯一神であり、その神を信じない人は真の宗教に目覚めないかわいそうな人なのだから、その状態から救い出してやることこそがキリスト者の使命と信じているからである。だがこれは、非キリスト者にしてみれば、"余計なお節介" になるのだった。そして、当時のローマには、圧倒的に非キリスト者が多かったのである。」四巻p.168
・「ローマの歴史で、帝政時代にかぎらず共和政時代をもふくめた全歴史中で最も名の知られた人物は、ユリウス・カエサルでもなくアウグストゥスでもなく、このネロである。有名であるだけでなく、ローマ皇帝の代表者の如くに思われている。ただし、ローマ帝国が健在であった時代はそうではなかった。ローマが滅亡し、世界の主人公がキリスト教徒に代わってから定着した評価である。紀元64年のこの迫害事件が、ネロを、ローマ史上第一の有名人にしたのだ。キリスト教徒はネロを、「反キリスト(アンチ・キリスト)」と呼んで弾劾するようになる。この傾向は、二千年後の現代でもまったく変わっていない。」四巻p.173
・「広大なローマ帝国の統治は、元老院に体現される少数指導制よりも一人が責任をもって当る帝政のほうが現実的であることは、もはや多くの人が納得する概念になっていたのである。」四巻p.180
・「歴史に親しむ日々を送っていて痛感するのは、勝者と敗者を決めるのはその人自体の資質の優劣ではなく、もっている資質をその人がいかに活用したかにかかっているという一事である。この面でのネロは、下手と言うしかなかった。良くなった評判を落とすようなことばかりをやる。」四巻p.190
・「ネロは、確かな証拠もなしに三人の司令官を殺したことで、ローマ全軍を敵にまわすことになってしまったのである。軽率というよりも、愚挙というしかなかった。」四巻p.200
・「「ネロは皇帝を私物化し、帝国の最高責任者とは思えない蛮行の数々に酔いしれている。母を殺し、帝国の有能な人材までも国家反逆の罪をかぶせて殺した。そのうえ、歌手に身をやつし、下手な竪琴と歌を披露しては嬉しがっている。帝国ローマの指導者にはふさわしくないこのような人物は、一刻も早く退位させるべきであり、それによって、われわれガリア人を、そしてローマ人を、いや帝国全体をも救うべきである」 この檄をとばしたヴィンデックスの許には、たちまち十万にものぼるガリア人が集まった。」四巻p.207
・「このネロを最後に、アウグストゥスがはじめた「ユリウス・クラウディウス朝」は崩壊した。百年つづいた後の崩壊である。だがそれは、単なる皇統の断絶というよりも、アウグストゥスが創造した、「デリケートなフィクション」としての帝政の崩壊を意味したと、私には思える。」四巻p.216
・「つまり、トップはバカでもチョンでも、「血」の継続ということで連続性だけは保証されるが、それを確実なものにするのは、高度な政治上の技能の持主の役割とされる。」四巻p.220 「バカでもチョンでも」久々に目にする言い回し。こんな言葉使って大丈夫なのか? 出版時のチェックで問題にならなかったのだろうか? と、ちょっとびっくりしてしまいました。しかし、この言い回しについて少し調べてみると、「チョン」とは元々特定民族を指す言葉ではなく、「特定民族の蔑称」としての意味は後付けされたものだという事実をはじめて知る。
・「しかし、アウグストゥスの「血」とは訣別したローマ人も、アウグストゥスの創設した帝政とは訣別しなかったのである。カエサルが青写真を描き、アウグストゥスが構築し、ティベリウスが磐石にし、クラウディウスが手直しをほどこした帝政は、心情的には共和政主義者であったタキトゥスですら、帝国の現状に適応した政体、とせざるをえなかったほどに機能していたからだ。ローマ人は、イデオロギーの民ではなかった。現実と闘う意味においての、リアリストの集団であった。」四巻p.223
・「反体制は、ただ単に反対するだけでは自己消耗してしまう。自ら消耗しないで反体制でありつづけるには、現体制にとって代わりうる新体制を提案しなければならない。これをやってこそ、反体制として積極的な意味をもつことができるからである。 しかし、ローマが帝政下で平和と繁栄を享受していた時代に生きた反体制は、それを提示することができなかった。」四巻p.227
《関連記事》
【本】ローマ人の物語 14・15・16 パクス・ロマーナ(2008.10.13)
【本】ローマ人の物語 11・12・13 ユリウス・カエサル ルビコン以後(2008.1.9)
【本】ローマ人の物語 8・9・10 ユリウス・カエサル ルビコン以前(2007.6.20)
【本】ローマ人の物語 6・7 勝者の混迷(2007.3.10)
【本】ローマ人の物語 3・4・5 ハンニバル戦記(2006.11.25)
【本】ローマ人の物語 1・2 ローマは一日にして成らず(2006.5.26)
・ローマ人の興亡を描く超大作も中盤にさしかかる。初代皇帝アウグストゥスの跡を引き継いた、ティベリウス(在位 紀元14-37年)、カリグラ(37-41年)、クラウディウス(41-54年)、ネロ(54-68年)の四人の皇帝により帝政が軌道に乗り始めた時代。文庫版シリーズで初の四冊組でかなりの分量です。
・書中で指摘されているように、私も『ローマ皇帝』と言えば『ネロ』の名がまっ先に頭に浮かびますが、本編では「その他大勢の皇帝のうちの一人」といった地味な扱いを受けています。その『暴君』っぷりは、後の世のキリスト教徒によって創り上げられた歪められた像であるとのこと。
・書き抜きが多すぎて10000字の字数制限に引っかかるので、文字色を "青" にするHTMLタグは省略。こんな事は『神との対話 2』以来。
・「もともとからして「悪名高き皇帝たち」というタイトル自体が、彼ら皇帝たちとは同時代人のタキトゥスを始めとするローマ時代の有識者と、評価基準ならばその延長線上に位置する近現代の西欧の歴史家たちの「採点」の借用であって、これには必ずしも同意しない私にすれば、反語的なタイトルなのである。平たく言えば、悪帝と断罪されてきたけれどホント? というわけですね。なにしろ、鋳造技術でも金銀の含有率でも、四世紀の貨幣とは比較のしようもないくらいの「良貨」が流通していたのが、これら悪名高き男たちが帝位に就いていた時期なのであった。」一巻p.10
・「都在住の平民や軍団兵たちへの遺贈金まで列記した最後に、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスは、以後の帝国統治担当者たちへの政治上の遺言も書き遺していた。 「現在の帝国の国境線を越えての拡大は、すべきではないと進言したい」」一巻p.33
・「ティベリウスはわかっていたのだ。自分が継ごうとしているローマ帝国最高統治者の立場が、ローマの法則、ローマの伝統に照らせば、いかに不明瞭なものであるかがわかっていたのだった。」一巻p.38
・「ローマの皇帝に正式に就任するには、前任者が指名しただけでは充分ではない。元老院とローマ市民双方の、承認を必要としたのである。元老院では投票により、市民の承認のほうは歓呼によりというちがいはあっても、この二者の承認なしには皇帝位に就けなかった。中国やその他の国々の皇帝とはまったくちがう、ローマ帝国の統治権につきまとった特色である。 ローマの主権者は、あくまでも「S・P・Q・R」即ち、「ローマの元老院並びに市民」であったのだ。」一巻p.38
・「アウグストゥスが強調した「プリンチェプス」を字義どおりに受け取れば、「ローマ市民中の第一人者」にすぎない。公式な名称でもない。事実、発掘された碑文のどれにも、ローマ皇帝の別称としてでも銘記されたものはない。「第一人者(プリンチェプス)」という名称は、強大な権力を手中に収めることで「ただ一人が統治する政体」を構築したアウグストゥスの、隠れ蓑であったのだ。」一巻p.42
・「ある日の元老院で、七月がユリウス、八月がアウグストゥスと名づけられているのに倣って、九月をティベリウスとしようと提案した議員がいた。ティベリウスは自席から、矢のような一句を放ってそれをつぶした。 「『第一人者(プリンチェプス)』が十人を越えたときはどうするのか」」一巻p.51
・「アウグストゥスの後を継いだティベリウスに課された任務は、第一に皇帝の地位の確立による帝政の堅固化、第二に国家財政の健全化、そして第三は、北の防衛線をライン河で留めるか、それともエルベ河まで拡張するか、の戦略上の問題であった。」一巻p.106
・「政治亡命や人質を、ローマ人はこのように考えていたのである。ローマ人がこれらの人々を牢に入れたりして冷遇しなかったのは、いざとなれば使えるカード、であったからだった。」一巻p.148
・「皇帝に就任するにも元老院の承認が必要であるだけでなく、皇帝の後継者選びにも元老院の承認がないと実現不可、皇帝勅令でさえも暫定措置法でしかなく、恒久的な政策にしたいと思えば、これまた元老院の議決を必要とし、それがなければ法制化も不可というのが、アウグストゥスの創設したローマの帝政であった。ローマの皇帝とは、支那の皇帝を思い起こしていては理解不可能な存在なのである。ペルシアなどのオリエントの君主制ともちがう。ローマ的、という形容詞をつけるしかない皇帝なのであった。」一巻p.194
・「責任分担方式を採用すれば、当然のことながら、任務を託す人の人選が重要な問題になってくる。この面でのティベリウスは、ティベリウス嫌いで徹した歴史家タキトゥスでも、次のように書くしかなかった。 「いかなる皇帝でも、彼ほどに巧妙な人事をなしえた皇帝はいなかった」 ティベリウスが、適材適所と能力主義を貫いたからである。」一巻p.210
・「現代の研究者の一人は、次のラテン語の格言くらい、皇帝ティベリウスにふさわしい句もないのではないかと言っている。 「FATA REGUNT ORBEM! CERTA STANT OMNIA LEGE」(不確かなことは、運命の支配する領域。確かなことは、法という人間の技の管轄)」一巻p.213
・「税金は低く押さえられているかぎりはたいていの人はきちんと払うもので、徴税業務を民間の請負人に委託する方式を採用していた帝政ローマでは、徴税の公正を期すには、脱税よりも徴税のしすぎのほうを警戒する必要があったのである。」一巻p.215
・「カプリ隠遁を決行したティベリウスは、こう考えたのではあるまいか。帝国の統治の成果さえあげられるならば、どこにいても、どのような方法でやっても、同じことではないか、と。だがこれは、政治をする人間の思考ではなく、官僚の思考である。」二巻p.18
・「人間とは、主権をもっていると思わせてくれさえすればよいので、その主権の行使には、ほんとうのところはさしたる関心をもっていない存在であるのかもしれない。結果が悪と出たときにだけ、主権の行使権を思い出すというだけで。」二巻p.19
・「体力、知力、精神力ともに衰えた後のボケ状態で命を保つことを極度に嫌ったローマの指導者層に属す人々には、食を断って自ら死を迎える例は珍しくない。」二巻p.68
・「なぜ一人がすべてを考え行なわねばならないのか、という嘆きは、全てを一人で考え行ってきたきた人がしばしば陥る一時のスランプであって、この一時期のスランプを抜け出せば、その人は、吐露した自己憐憫など忘れたのかと思うほどのエネルギーで、再び「一人ですべてを考え行う」状態に復帰するのである。」二巻p.86
・「ローマ帝国は、タキトゥスのような共和政シンパがどう批判しようと、カエサルが企画し、アウグストゥスが構築し、ティベリウスが磐石にしたという事実ではまちがいない。」二巻p.90
・「紀元37年のカリグラくらい、すべての人々に歓迎されて皇位に登った人はいない。言い換えれば、敵なしの状態で帝国の最高権力者になった者は一人もいなかった。」二巻p.98
・「「無冠の帝王」とは、専制君主制に慣れたオリエント(東方)とはちがう歴史と伝統をもつオチデント(西方)を考慮したがゆえの、アウグストゥスが創設した「ローマ独自の皇帝」の形なのである。その「無冠」であるがゆえにかえって「有冠」の王よりも上位であることの意味を理解できなかったカリグラは、「冠」の有無のちがいに不満しかいだかなかったのであった。」二巻p.122
・「ギリシアやローマの神々が彫像で表現される場合は、上半身裸体で裸足の姿で現される。現実に存在した人物でも神格化された姿で表現したい場合や、ただ単に死後の作であることをしめしたい場合は、上半身裸体で裸足か、有名な『プリマポルタのアウグストゥス像』のように、甲冑姿でも裸足の姿で表現される。カリグラは、神格化されてもいずまた生きているにもかかわらず、それを実行したのだ。 上半身裸体で裸足で髪もひげもなにやらゼウスをまねて金色に染めた姿で元老院に現れたカリグラを見て、唖然とした議員たちは声もなかった。」二巻p.124
・「ローマ人の支配の基本精神は、帝政ローマ時代に生きたギリシア人のプルタルコスも言ったように、「敗者でさえも自分たちと同化する」ところにあった。敗者側の一民族であったユダヤ人だけが、同化することを拒絶したのである。勝者ローマとの同化にかぎらず、他民族との同化も拒絶していたのがユダヤ民族であったのだ。なぜか。 彼らの宗教であるユダヤ教が、それを許さなかったからである。ユダヤ民族にとっての憲法であるモーゼの「十戒」は、その冒頭に、ユダヤ人が犯してはならないことの第一として、「あなたはわたしの他に、何ものをも神としてはならない」とある。」二巻p.159
・「ローマ人は人間に法律を合わせ、ユダヤ人は法律に人間を合わせる、と言い換えてもよいかもしれない。」二巻p.162
・「しかし、「普遍」とは、それを押しつけるよりも「特殊」を許容してこそ実現できるものなのである。具体的には、ケース・バイ・ケースが最も現実的な方策ということになる。ローマ人はこの面でも、見事なまでにエキスパートであった。」二巻p.167
・「イエス・キリストの処刑も、イェルサレムの祭司たちで構成された法廷が死刑の判決を下し、当時のユダヤ長官のポンツィオ・ピラトがOKを与えたので実施されたのである。長官ピラトは祭司階級の圧力に屈し、手を洗うという象徴的なジェスチャーをすることで、あなた方(ユダヤ側)の決めたことだからわたし(ローマ側)は関知することではない言ってイエスの処刑にOKを出したのだった。それがもしも、ピラトがユダヤ側の圧力に屈せずに、自分が体現するローマの法に従って行動していたとしたら、イエスの十字架上の死は実現しなかったのである。」二巻p.177
・「だが、ギリシア人の移住とユダヤ人の移住では、根本的な差異があった。 ギリシア人は、何もない土地に新しく都市を建設し、そこを基地にして、手工業や通商業によって富を築くのである。反対にユダヤ人は、すでに存在し繁栄している都市に移り住み、手工業や通商業や金融業に従事して富を築くのであった。」二巻p.183
・「ティベリウスは、ユダヤ民族の特殊性を充分に理解していた。シリア総督クィリーヌスをつづけて重用したのも、そしてイェルサレムのユダヤ人を刺激しないためにあらゆる妥協策をとったのも、理解していた証拠である。だが、理解していたからこそなおのこと、特殊なユダヤ民族が普遍を目指すローマ帝国にもあたらす、危険性も熟知していたのだった。神の法にしか従わない人々と、人間の法によって律しようと努める人々と、どうやれば共存は可能か。」二巻p.186
・「しかしカリグラは、幸か不幸かモンスターではなかった。頭も悪くなかった。彼にとっての不幸は、いや帝国全体にとっての不幸は、政治(ポリテイカ)とは何かがまったくわかっていない若者が、政治(ポリテイカ)をせざるをえない立場に就いてしまったことにある。」二巻p.202
・「他の職業人に比べて政治家が非難されやすい理由の一つは、政治とは誰にでもやれることだという思いこみではないだろう。(中略)民を主権者とする政体とは、政治のシロウトが政治のプロに評価を下すシステム、と言えないであろうか。(中略)政治家が挑戦すべきなのは、政治のプロとしての気概と技能は保持しながら同時にシロウトの支持を獲得するという、高等な技なのである。」三巻p.10
・「クラウディウスの性格には、部下たちに畏敬の念を起こさせるところがなかった。言い換えれば、軽く見られがちであったということである。結果として、元奴隷の秘書官たちは、何をやってもかまわないと思ってしまったのだ。」三巻p.87
・「クラウディウスは、帝国の統治ないし運営が、非著名な史実、つまりはニュースにならない作業でささえられていることを知っていた皇帝であった。地道な財務を重要視する人にとっては、現状の正確な把握が欠かせない。クラウディウスは、国勢調査(チェンスス)の実施を決めた。」三巻p.99
・「皇帝クラウディウスは、祖国(パトリア)の理念を、イタリア半島内に留めることなく帝国ローマの全域に広げるとした、ユリウス・カエサルの精神(スピリット)を再興したのであった。」三巻p.138
・「古代人の奴隷に対する考えは、自分たちと宗教をともにしないがゆえにじぶんたちと同等になる権利をもたない人間、というのではなかった。戦争に敗れるとか、海賊に捕われるとか、または払えない借金のかたに取られるとか、でなければ奴隷の子に生れたとか、親に売られたとか、という「不運」に見舞われた結果、奴隷の身分に落ちた人々を指したのである。」三巻p.140
・「主人であったクラウディウスも、その元奴隷であったナルキッソスも、燃えつきたことでは同じであったのかもしれない。」三巻p.193
・「というわけでマルチ型に属する人々は、心の奥深くに常に不安を隠しもっている。自分は何もし遂げていない、という不安だ。この不安は、何かを行なう場合に度を越すことにつながりやすい。皇帝ネロも、この種の一人ではなかったかと思っている。一私人として見れば、不幸な男だった。」四巻p.10
・「皇帝に就任した当時、ネロは、16歳と10ヶ月でしかなかった。責任ある公職に就くのは30歳からとされていたローマでは、異例に若い皇帝の出現である。」四巻p.16
・「同時代のローマ人ならば、また同時代人でなくても帝国が存在していた時代のローマ人ならば、この項目をあげただけでそれらが意味するところを直ちに理解できたのである。しかし、われわれは、ローマ帝国がとうの昔に滅亡した二千年後に生きている。それゆえ、ローマ人には不必要だった解説が必要になるのも当然だ。」四巻p.18
・「同情(ミゼリコルディア)と寛容(クレメンティア)のちがいを説いた箇所で、そこではセネカは次のように言っている。 「同情とは、現に眼の前にある結果に対しての精神的対応であって、その結果を産んだ要因にまでは心が向かない。これに反して寛容は、それを産んだ要因にまで心を向けての精神的対応であるところから、知性(サピエンス)とも完璧に共存できるのである。」」四巻p.20
・「これこそ現代でもラテン語のVETO(ヴェトー)で通用する、拒否権をもっているからである。ゆえに、拒否権なしの常任理事国などは意味を成さない。つまり、拒否権は最強の権力なのだ。」四巻p.50
・「ネロには、問題の解決を迫られた場合、極端な解決法しか思いつかないという性癖があった。それは、彼自身の性格が、本質的にはナイーブであったゆえではないかと想像する。」四巻p.77
・「いずれにしても、これでネロは、母殺しに加えて妻殺しの汚名まで浴びることになった。」四巻p.112
・「戦争は、武器を使ってやる外交であり、外交は、武器を使わないでやる戦争である。コルブロは、このことを知っていた武人であった。」四巻p.144
・「放って置かないのが、キリスト教なのである。キリスト教の立場からすれば、放っては置けないのも当然だ。彼らが信ずる神は唯一神であり、その神を信じない人は真の宗教に目覚めないかわいそうな人なのだから、その状態から救い出してやることこそがキリスト者の使命と信じているからである。だがこれは、非キリスト者にしてみれば、"余計なお節介" になるのだった。そして、当時のローマには、圧倒的に非キリスト者が多かったのである。」四巻p.168
・「ローマの歴史で、帝政時代にかぎらず共和政時代をもふくめた全歴史中で最も名の知られた人物は、ユリウス・カエサルでもなくアウグストゥスでもなく、このネロである。有名であるだけでなく、ローマ皇帝の代表者の如くに思われている。ただし、ローマ帝国が健在であった時代はそうではなかった。ローマが滅亡し、世界の主人公がキリスト教徒に代わってから定着した評価である。紀元64年のこの迫害事件が、ネロを、ローマ史上第一の有名人にしたのだ。キリスト教徒はネロを、「反キリスト(アンチ・キリスト)」と呼んで弾劾するようになる。この傾向は、二千年後の現代でもまったく変わっていない。」四巻p.173
・「広大なローマ帝国の統治は、元老院に体現される少数指導制よりも一人が責任をもって当る帝政のほうが現実的であることは、もはや多くの人が納得する概念になっていたのである。」四巻p.180
・「歴史に親しむ日々を送っていて痛感するのは、勝者と敗者を決めるのはその人自体の資質の優劣ではなく、もっている資質をその人がいかに活用したかにかかっているという一事である。この面でのネロは、下手と言うしかなかった。良くなった評判を落とすようなことばかりをやる。」四巻p.190
・「ネロは、確かな証拠もなしに三人の司令官を殺したことで、ローマ全軍を敵にまわすことになってしまったのである。軽率というよりも、愚挙というしかなかった。」四巻p.200
・「「ネロは皇帝を私物化し、帝国の最高責任者とは思えない蛮行の数々に酔いしれている。母を殺し、帝国の有能な人材までも国家反逆の罪をかぶせて殺した。そのうえ、歌手に身をやつし、下手な竪琴と歌を披露しては嬉しがっている。帝国ローマの指導者にはふさわしくないこのような人物は、一刻も早く退位させるべきであり、それによって、われわれガリア人を、そしてローマ人を、いや帝国全体をも救うべきである」 この檄をとばしたヴィンデックスの許には、たちまち十万にものぼるガリア人が集まった。」四巻p.207
・「このネロを最後に、アウグストゥスがはじめた「ユリウス・クラウディウス朝」は崩壊した。百年つづいた後の崩壊である。だがそれは、単なる皇統の断絶というよりも、アウグストゥスが創造した、「デリケートなフィクション」としての帝政の崩壊を意味したと、私には思える。」四巻p.216
・「つまり、トップはバカでもチョンでも、「血」の継続ということで連続性だけは保証されるが、それを確実なものにするのは、高度な政治上の技能の持主の役割とされる。」四巻p.220 「バカでもチョンでも」久々に目にする言い回し。こんな言葉使って大丈夫なのか? 出版時のチェックで問題にならなかったのだろうか? と、ちょっとびっくりしてしまいました。しかし、この言い回しについて少し調べてみると、「チョン」とは元々特定民族を指す言葉ではなく、「特定民族の蔑称」としての意味は後付けされたものだという事実をはじめて知る。
・「しかし、アウグストゥスの「血」とは訣別したローマ人も、アウグストゥスの創設した帝政とは訣別しなかったのである。カエサルが青写真を描き、アウグストゥスが構築し、ティベリウスが磐石にし、クラウディウスが手直しをほどこした帝政は、心情的には共和政主義者であったタキトゥスですら、帝国の現状に適応した政体、とせざるをえなかったほどに機能していたからだ。ローマ人は、イデオロギーの民ではなかった。現実と闘う意味においての、リアリストの集団であった。」四巻p.223
・「反体制は、ただ単に反対するだけでは自己消耗してしまう。自ら消耗しないで反体制でありつづけるには、現体制にとって代わりうる新体制を提案しなければならない。これをやってこそ、反体制として積極的な意味をもつことができるからである。 しかし、ローマが帝政下で平和と繁栄を享受していた時代に生きた反体制は、それを提示することができなかった。」四巻p.227
《関連記事》
【本】ローマ人の物語 14・15・16 パクス・ロマーナ(2008.10.13)
【本】ローマ人の物語 11・12・13 ユリウス・カエサル ルビコン以後(2008.1.9)
【本】ローマ人の物語 8・9・10 ユリウス・カエサル ルビコン以前(2007.6.20)
【本】ローマ人の物語 6・7 勝者の混迷(2007.3.10)
【本】ローマ人の物語 3・4・5 ハンニバル戦記(2006.11.25)
【本】ローマ人の物語 1・2 ローマは一日にして成らず(2006.5.26)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます