ケインズを学ぶ 経済学とは何か, 根井雅弘, 講談社現代新書JEUNESSE 1302, 1996年
・20世紀最大の経済学者ケインズの紹介を通して、近代経済学の流れを示した入門書。ケインズの生い立ちやその人となりの紹介部分はまだついていけるが、2章以降の経済学の中身についての記述になると、私のような門外漢は完全においていかれてしまう。講談社現代新書の中でも "JEUNESSE" マークのついたものは良書が多いので期待は高かったが、その期待に応えられる内容ではなかった。
・「というのは、この本のねらいが、ケインズについての先入観をできるだけ抱かせることなく、みなさんをケインズの世界に招待することにあるからです。」p.10
・「私には、ケインズこそ、理想的な経済学者の要件を最高に満たした人物だったように思えるのです。私がこの本を書く気になったのも、そのことを高校生のような若い人たちに伝えたかったからにほかなりません。」p.13
・「ところが、ケインズの確率概念は、そのどちらとも違うものなのです。それどころか、彼の確率概念は、以下に述べるように、正確な測定が不可能であるという意味で、そもそも明確に定義することができないものなのです(ここに、私たちは、ムーアの善定義不可能説の影響を見て取ることができます)。 ケインズの考え方は、かいつまんで言うと、ある所与の前提命題 h から結論命題 a を導き出す「推論」(argument)にともなう「合理的な確信の程度」が「確率」であるということになるでしょうか。ケインズは、これを P(a/h) と表わしています。これは、もし a が h から確実に導き出されるならば1、反対に a がけっして h からは導き出されないならば0となりますが、しかし、この意味での「確率」は、一つの数値を持つとはかぎらないというのが、ケインズの主張です。彼は、「確率を測定しうるどころか、われわれがそれを一定の大きさの順序につねに配列することができるということさえ明らかではない」とまで言っています。 ケインズは、さらに、推論にともなう「重み」(weight)というものも考えています。これは、いわば、推論における前提となる知識の絶対量であり、ケインズは、これを V(a/n) と表わします。つまり、何か新しい知識が付け加わると、推論の「重み」が増したと考えるわけです。」p.51
・「では、金本位制度とは、どのような制度なのでしょうか。それは、簡単に言えば、一国の通貨が中央銀行の保有している金の量によって制限されるような制度のことを指しています。」p.69
・「ケインズが生きた時代は、まさに、「パックス・ブリタニカ」から「パックス・アメリカーナ」(Pax Americana)への転換期でした。ケインズは、第一次世界大戦がもたらした「変化」を敏感に感じ取った点において、19世紀の「パックス・ブリタニカ」に郷愁の想いを抱くだけの懐古主義者とは明確に区別されなければなりませんが、それにもかかわらず、彼の残りの生涯は、あくまで祖国の利益を守るために捧げられたと言ってもよいのではないでしょうか。」p.87
・「私たちは、前の章において、『貨幣改革論』(1923年)のケインズが、イギリスの旧平価での金本位制度への復帰に反対する論客として登場したことを見ましたが、その例に限らず、彼はつねに折々の経済問題に取り組み、その思索の成果を「説得」という形で大衆に訴えかけたきわめて実践的な経済学者でした。しかし、彼は、そのような実践活動にたずさわるものとしてはきわめて異例なことに、結局は、『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)――以下では、『一般理論』と略称します――において、単に実践的のみならず正統派経済学の思考法を根本的に否定する「新しい経済学」を樹立するというアカデミックな仕事を成し遂げたのです。」p.102
・「ケインズは、かいつまんで言うと、投資決定の問題を次のように考えました。すなわち、企業家は、投資から得られると予想される利潤率――ケインズは、これを「資本の限界効率」(marginal efficiency of capital)と呼んでいます――と、金融市場で決まる利子率を比較し、前者が後者よりも大ならば投資を拡大、後者が前者よりも大ならば投資を縮小するというように行動することによって、結局、両者が一致するところまで投資をおこなう、と。」p.133
・「『一般理論』以前には、政府が国民の雇用を保障する義務があるという発想はけっして出てこなかったものですが、それ以後になると、例えば、イギリスの『雇用政策白書』(1944年)やアメリカの「雇用法」(1946年)をみればわかるように、政府ができるだけ高く安定した雇用水準を維持する義務があるという考え方が一般にも認められるようになったのです。」p.151
・「みなさんも、おそらく次のような感想を持ったのではないでしょうか。すなわち、マネタリズムにせよ供給重視の経済学にせよ、古くからある貨幣数量説の現代版であったり、「供給はそれみずからの需要をつくりだす」というこれも同じように古い「セイの法則」の現代版であったり、いずれも、ケインズが「古典派」と呼んだ経済思想の復活なのではないか、と。そのとおりです。経済学では、古い思想がたえず新たな装いの下に「最新理論」として何度も復活してきますが、これを知ることも、経済学の歴史を学ぶ楽しみの一つかもしれません。」p.172
・「1944年の秋のこと、ケインズは、世の中で「ケインジアン」と呼ばれている人々と自分自身がいかに異なっているかを嘆息しながら、「私は、現在、ただ一人の非ケインジアンであることがわかった」と述べたというのです。そういえば、あの『資本論』の著者マルクスも似たようなことを言ったと伝えられていますが、どうやら、私たち凡人は、天才の思考の速度にはとうていついていけないものなのかもしれません。」p.181
・「モラル・サイエンスとは、かいつまんで言えば、アダム・スミスやディヴィッド・ヒュームの時代から続く「モラル・フィロソフィー」(moral pholosophy)の系譜に連なるもので、社会の一員としての人間を取り扱う学問を指しています。したがって、経済学が一つのモラル・サイエンスであるという場合、その意味するところは、人間社会の現象を経済的側面から研究する学問ということになるわけです。」p.183
・20世紀最大の経済学者ケインズの紹介を通して、近代経済学の流れを示した入門書。ケインズの生い立ちやその人となりの紹介部分はまだついていけるが、2章以降の経済学の中身についての記述になると、私のような門外漢は完全においていかれてしまう。講談社現代新書の中でも "JEUNESSE" マークのついたものは良書が多いので期待は高かったが、その期待に応えられる内容ではなかった。
・「というのは、この本のねらいが、ケインズについての先入観をできるだけ抱かせることなく、みなさんをケインズの世界に招待することにあるからです。」p.10
・「私には、ケインズこそ、理想的な経済学者の要件を最高に満たした人物だったように思えるのです。私がこの本を書く気になったのも、そのことを高校生のような若い人たちに伝えたかったからにほかなりません。」p.13
・「ところが、ケインズの確率概念は、そのどちらとも違うものなのです。それどころか、彼の確率概念は、以下に述べるように、正確な測定が不可能であるという意味で、そもそも明確に定義することができないものなのです(ここに、私たちは、ムーアの善定義不可能説の影響を見て取ることができます)。 ケインズの考え方は、かいつまんで言うと、ある所与の前提命題 h から結論命題 a を導き出す「推論」(argument)にともなう「合理的な確信の程度」が「確率」であるということになるでしょうか。ケインズは、これを P(a/h) と表わしています。これは、もし a が h から確実に導き出されるならば1、反対に a がけっして h からは導き出されないならば0となりますが、しかし、この意味での「確率」は、一つの数値を持つとはかぎらないというのが、ケインズの主張です。彼は、「確率を測定しうるどころか、われわれがそれを一定の大きさの順序につねに配列することができるということさえ明らかではない」とまで言っています。 ケインズは、さらに、推論にともなう「重み」(weight)というものも考えています。これは、いわば、推論における前提となる知識の絶対量であり、ケインズは、これを V(a/n) と表わします。つまり、何か新しい知識が付け加わると、推論の「重み」が増したと考えるわけです。」p.51
・「では、金本位制度とは、どのような制度なのでしょうか。それは、簡単に言えば、一国の通貨が中央銀行の保有している金の量によって制限されるような制度のことを指しています。」p.69
・「ケインズが生きた時代は、まさに、「パックス・ブリタニカ」から「パックス・アメリカーナ」(Pax Americana)への転換期でした。ケインズは、第一次世界大戦がもたらした「変化」を敏感に感じ取った点において、19世紀の「パックス・ブリタニカ」に郷愁の想いを抱くだけの懐古主義者とは明確に区別されなければなりませんが、それにもかかわらず、彼の残りの生涯は、あくまで祖国の利益を守るために捧げられたと言ってもよいのではないでしょうか。」p.87
・「私たちは、前の章において、『貨幣改革論』(1923年)のケインズが、イギリスの旧平価での金本位制度への復帰に反対する論客として登場したことを見ましたが、その例に限らず、彼はつねに折々の経済問題に取り組み、その思索の成果を「説得」という形で大衆に訴えかけたきわめて実践的な経済学者でした。しかし、彼は、そのような実践活動にたずさわるものとしてはきわめて異例なことに、結局は、『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)――以下では、『一般理論』と略称します――において、単に実践的のみならず正統派経済学の思考法を根本的に否定する「新しい経済学」を樹立するというアカデミックな仕事を成し遂げたのです。」p.102
・「ケインズは、かいつまんで言うと、投資決定の問題を次のように考えました。すなわち、企業家は、投資から得られると予想される利潤率――ケインズは、これを「資本の限界効率」(marginal efficiency of capital)と呼んでいます――と、金融市場で決まる利子率を比較し、前者が後者よりも大ならば投資を拡大、後者が前者よりも大ならば投資を縮小するというように行動することによって、結局、両者が一致するところまで投資をおこなう、と。」p.133
・「『一般理論』以前には、政府が国民の雇用を保障する義務があるという発想はけっして出てこなかったものですが、それ以後になると、例えば、イギリスの『雇用政策白書』(1944年)やアメリカの「雇用法」(1946年)をみればわかるように、政府ができるだけ高く安定した雇用水準を維持する義務があるという考え方が一般にも認められるようになったのです。」p.151
・「みなさんも、おそらく次のような感想を持ったのではないでしょうか。すなわち、マネタリズムにせよ供給重視の経済学にせよ、古くからある貨幣数量説の現代版であったり、「供給はそれみずからの需要をつくりだす」というこれも同じように古い「セイの法則」の現代版であったり、いずれも、ケインズが「古典派」と呼んだ経済思想の復活なのではないか、と。そのとおりです。経済学では、古い思想がたえず新たな装いの下に「最新理論」として何度も復活してきますが、これを知ることも、経済学の歴史を学ぶ楽しみの一つかもしれません。」p.172
・「1944年の秋のこと、ケインズは、世の中で「ケインジアン」と呼ばれている人々と自分自身がいかに異なっているかを嘆息しながら、「私は、現在、ただ一人の非ケインジアンであることがわかった」と述べたというのです。そういえば、あの『資本論』の著者マルクスも似たようなことを言ったと伝えられていますが、どうやら、私たち凡人は、天才の思考の速度にはとうていついていけないものなのかもしれません。」p.181
・「モラル・サイエンスとは、かいつまんで言えば、アダム・スミスやディヴィッド・ヒュームの時代から続く「モラル・フィロソフィー」(moral pholosophy)の系譜に連なるもので、社会の一員としての人間を取り扱う学問を指しています。したがって、経済学が一つのモラル・サイエンスであるという場合、その意味するところは、人間社会の現象を経済的側面から研究する学問ということになるわけです。」p.183
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