美について, 今道友信, 講談社現代新書 324, 1973年
・『美について』このつかみどころが無く思える、茫漠としたテーマについて真正面から取り組んだ書。その持論は読み応えのある密度の濃い文章で展開される。それに着いていけない場面も多々あるが、時々ハッとさせられる文章にも突き当たる。『美学』や『芸術論』などの入門書としても使えそうな良書。
・「真と善と美とは人間の文化活動を保証し、かつ、刺激してやまない価値理念である。幸福や健康や才能や富や快楽や権勢や名誉や便益などの一切がそなわった人間がいても、もしその人が真、善、美の追求を捨て去るならば、その時点から獣に堕ちてしまう。なぜか。幸福や健康と並べて列挙した一切のものは、その具体的な状態は千差万別であるにしても、多くの高等動物の生態の中で充分見出される現象であるからにほかならない。」p.12
・「真が存在の意味であり、善が存在の機能であるとすれば、美は、かくて、存在の恵みないし愛なのではなかろうか。」p.14
・「本当に美は直接的な視覚、聴覚、あるいは感覚、感情の相関者であって、美について思索することは、理論的にはともかくとして実際問題としては不要なのであろうか。」p.21
・「どのような作品の場合にも、理性的に理解するという段階がなければ、その作品の鑑賞は成立しない。美はこの意味で、たしかに理性的に発見されなければならない面がある。」p.28
・「美は、現代芸術のさなかにあって、今音楽についてみたように、人間の自己回復の鍵になっているのではなかろうか。しかし、その回復とは、瞬間的に変移する無反省な小品の上で、自己の肉身を恣意的に踊らす方にあるのか、自己のはかない生命を永遠な大作の中に刻みこみ、作品として転身する方にあるのか、簡単に定めることはできない。いずれにせよ、美は、この二者択一の中で、求める人々の対象であることに変りはない。」p.40
・「解釈とは人間関係でいえば対話に当たるようなものであり、分析とは、人間関係についていえば、身体検査と戸籍調べのようなものである。」p.45
・「作品との対話と一口にいうが、これは結局作品が秘めている体験及び価値展望と、自己の体験によって深められている私との対話ということができよう。」p.45
・「美について思索することは、決して机上の空論ではない。今まで述べたことによって、われわれのごくありふれた観光の体験、また芸術作品との体験、生活環境への反省というような誰にでもありうる体験を通じて、美の思索は可能であると同時に、必要であり、かつまた有益であるということを、きわめて論理的に示したつもりである。」p.54
・「翻って、われわれが日常芸術と思っているものを反省してみると、そのほとんどが複製品であり、翻訳であり、結局は価値の点で巨大である原作のミニアチュール(雛型、小型版)であると言わざるをえないし、かりに本物の作品に接するということがあっても、それはたいてい、博物館の中に据えられていて、故郷を奪われた姿である。ということは、われわれはしばしば真の芸術体験を構成しているのではなく、疑似体験としての芸術体験、または教養体験としての芸術体験をしているに過ぎない、ということを意味するのではないか。」p.70
・「今わざわざむつかしい字形でここに紹介するこの「藝」という字は、漢代の初期(前二世紀頃)に今日の形の文献として成立していた『論語』や『周禮』にも見られるもので、もともとの意味は「ものを種える」ということであり、人間の精神において内的に成長してゆく或る価値体験を植えつける技ということを意味するから、私の見るところでは、洋の東西を問わず、今ここで主題としている文化現象を表わすにはこれを使った藝術が一番適切な言葉なのではないかと思う。ただし、今日本で使っている「芸」という字は、もともと「藝」の略字ではなく、漢字本来の伝統では立派な本字なのであるが、「草を刈りとること」であって、「ウン」と発音し「クサギル」と訓む言葉で、「藝」の語感とは全く異なるし、「芸術」と書けば農業の田畑の草をとる技術と同じ意味になるが、しかし、当用漢字の制度では、「ゲイ」と読んで「藝」の略字であるという風に定められ普及してしまったのでこういう間違ったことに妥協するのはよくないことではあるが、その制度のもとに育っている多くの読者の便をはかれば、この字で藝の意味を理解するほかはない。」p.75
・「人間によって発見される秩序をもった自然的存在を、一定の手続きにより、価値を結晶軸にして、それ自身自己完結的な、人間によって組み立てられた秩序をもつ美しく快い作品にまで作り上げる技術、それが芸術である。この意味では、芸術は物質の条件の配置変換による価値賦与であるといってよいかと思う。」p.76
・「このようにみてくると、確かに東洋と西洋においては、芸術や美についての理念がまったく歴史的には逆の展開を同時に行なってきたと認めることができる。なぜならば、西洋においては、今述べたように古典的芸術理念は模倣的再現であり、近代的理念としては、表現が新たに成立し、しかも、そのような観念が成立してから、形態的にいわば未完成の作品が開かれた未来を秘めるものとして尊重されてきている。これに対して、東洋においては古典的な理念はむしろ写意としての表現であり、再現すなわち写生はきわめて近代の考え方なのである。」p.94
・「芸術は物質の中に、非物質的な永遠者の美を喚び出すみなのである。」p.99
・「このように、芸術とは別の次元で現象する風土と民族の関係が、同一の文化圏の内部における歴史的文節として、風土的・民族的な第一次様式を、さらに時代的な趣味や風潮と関係させることになる。」p.103
・「作品が自己を言語の上に展開しながら、自らの光を世に照らし出すようにすること、それが作品の価値の現実化なのである。どうしてかというと、人間の理性は言語の次元で現実化するからである。解釈とはこのようにして、先ず第一に作品の持っている可能性としての価値を、この世に輝き出す操作でなければならない。それはいわば演奏のようなものである。したがって、解釈とはそれ自身一つの美的体験であって、それは科学の体験のように、一義的な記号の答えをもって終局となす閉鎖的体験ではなく、限りなく深められてゆく開かれた体験でなければならない。その意味で、作品の解釈とは、同一の作品に対して反復して試みられるものであり、しかも、そのたびに新しい喜びが涌き出てくるような体験なのである。」p.130
・「芸術とは、ありとあらゆる事象に潜んでいるよい物を、光を、希望を、作品の中に表わすことによって、存在するすべてのものを完全にする技なのではなかろうか。」p.134
・「映像の飛躍的な進歩は、すぐれた映画作品やすぐれたテレビ・ドラマが示すように、人間の視覚体験や聴覚体験に革命的な展開をもたらした立派な芸術を与えもしたが、同時にその電波を乱用する結果、映像という非連続的なものの瞬間的系列が、論理という構成的な連続に基づいている理性的文化の維持に対して、否定的に作用するというほど、瞬間的感覚を重んずる傾向を生んでいるのではないか。」p.148
・「現代国家はその小学教育の全過程において、音楽や絵画や舞踏を課しているから、われわれが社会人に育って来たのは、芸術を媒体にした教育なのである。 したがって、芸術は今日も学校の中で驚くほど教育的機能を果たしているという事実に注目しなければならない。」p.150
・「現代社会は一言で言うならば、拙著『愛について』(現代新書)で詳しく述べたように技術連関であると言ってよい。技術の力で現代の社会は連鎖的に関係づけられているからである。したがって、現代社会の最も本質的な特色は、技術の本質に由来するということができる。技術の本質とは何か。それは計量的に記号化された効果的な手段連関であるということであろう。したがって、技術の特色としては、記号的構造と効果的な手段という二つが挙げられる。これらと関係させて、芸術の社会的機能を考えてみよう。」p.152
・「芸術は帰するところ、個人個人の人格の、科学で完成さすことのできない真の完成を、その本来的な目的とするものということができる。ということは、芸術の美も力も、人間の精神の美しさを究極目的としていることになるのではないか。」p.160
・「ほとんどすべてのひとが芸術鑑賞の際に志向していることは、その意識を分析すれば、結局のところ、快を求めている、というほかないであろう。」p.165
・「芸術はこうして究極するところ、無意識のうちに求道者としての人格美を頂点に持つ営みなのである。」p.177
・「一つは美は決して事物的な意味で客観的な存在ではないということである。というのは、美しいものはあるが、美、すなわち美しさはこの世のどこにもない。ということは、美は無意識な存在、観念的な存在であるということにほかならない。」p.178
・「初めに、第一章、第二章で述べたことをふりかえってみると、つぎの三つに要約される。すなわち(一)美は感覚で感ぜられるにとどまらず、理性によって発見されてくるものである、(二)つぎにこの理性による美の発見を、私は解釈と呼び、これは様式や主題の歴史的分析や物理的分析とは異なり、これらを前提とするが、分析結果の水平的集積を超える体験であると規定したこと、したがって、この体験は作品を足場として、精神が美という価値に遭遇するのを目的とする立体的な構成をもつことになる。右のように規定した場合、直ちに提起されるのは、美は芸術を通じてのみ発見されるものなのかどうかという問題である。そして、(三)このような解釈は一作品のみを対象とする操作として意味があるばかりではなく、全般的な現象としての芸術一般を対象としても可能であり、かつ、現代芸術の一傾向としての原色性に関する前述(第二章3節)の解釈例のように意外な程有効な理論を導き出しうるものである。」p.186
・「芸術作品は、それゆえ、有限を介して無限へ至るはずの精神の道が刻み隠されている事物であり、世界から超越へ、歴史から普遍へ、物質から理念へ至る垂直の柱なのである。」p.207
・「さて、その「美しい」であるが、これを漢字の「美」の構造からみると、羊が大きいという意味を持っている。この羊については、色々の解釈があって、羊の肉が大きいという風に考えて、美は単に美味という味覚に由来するという感覚的な理解をする向きもあるが、私の考えるところはそれとは別である。なぜならば羊は色々な大切な漢字に関係している。たとえば、義、善などみな美と同様に羊という字をもっているではないか。それゆえ、私は、この羊は『論語』の告朔(こくさく)の?羊(きよう)(『論語』巻二・八?第三)という句と関係させて理解しなければならないと思う。」p.212
・「私は、文化は伝達されるものではなく、点火されるのみであると思う。火を点じられても、自ら燃えないものは炎を出すことができない。文化は受け取られる情報ではなく、自ら燃え立つ力である、と考える。その意味で、生産しないものは文化ではない。」p.223
・「美術品の中心的価値である美は、やはり人間の追求する価値の中では、最も人生の周辺にあるもの、あるいは、少し極端な言い方をすれば、生の余剰の装飾品、または贅沢や余裕が求める徒花と言わるべきものに過ぎないのではないか、という疑問がまた生じて来る。」p.228
・「こうしてみてくると、美はその至高の姿においては、宗教の聖と繋がる人間における最高の価値であると言わねばなるまい。美は基本的には、精神の犠牲と表裏する人格の姿なのである。この輝きは、単に義務を履行して、他人から批難されない行ないの正しさ、自己を失うことなしに、道徳的に模範となっている善の落度のなさとは異なって、積極的な光となってひとびとの心に明るい灯となるものではあるまいか。われわれは、義の人を賞讃し、善の人を賛嘆することはできる。しかし、それらの賞讃や賛嘆がわれわれを動かすであろうか。われわれの命に立ち上がる力を与えるもの、それは、輝き出てくる美しさだけなのである。美のひとのみが力を喚ぶ。」p.234
・『美について』このつかみどころが無く思える、茫漠としたテーマについて真正面から取り組んだ書。その持論は読み応えのある密度の濃い文章で展開される。それに着いていけない場面も多々あるが、時々ハッとさせられる文章にも突き当たる。『美学』や『芸術論』などの入門書としても使えそうな良書。
・「真と善と美とは人間の文化活動を保証し、かつ、刺激してやまない価値理念である。幸福や健康や才能や富や快楽や権勢や名誉や便益などの一切がそなわった人間がいても、もしその人が真、善、美の追求を捨て去るならば、その時点から獣に堕ちてしまう。なぜか。幸福や健康と並べて列挙した一切のものは、その具体的な状態は千差万別であるにしても、多くの高等動物の生態の中で充分見出される現象であるからにほかならない。」p.12
・「真が存在の意味であり、善が存在の機能であるとすれば、美は、かくて、存在の恵みないし愛なのではなかろうか。」p.14
・「本当に美は直接的な視覚、聴覚、あるいは感覚、感情の相関者であって、美について思索することは、理論的にはともかくとして実際問題としては不要なのであろうか。」p.21
・「どのような作品の場合にも、理性的に理解するという段階がなければ、その作品の鑑賞は成立しない。美はこの意味で、たしかに理性的に発見されなければならない面がある。」p.28
・「美は、現代芸術のさなかにあって、今音楽についてみたように、人間の自己回復の鍵になっているのではなかろうか。しかし、その回復とは、瞬間的に変移する無反省な小品の上で、自己の肉身を恣意的に踊らす方にあるのか、自己のはかない生命を永遠な大作の中に刻みこみ、作品として転身する方にあるのか、簡単に定めることはできない。いずれにせよ、美は、この二者択一の中で、求める人々の対象であることに変りはない。」p.40
・「解釈とは人間関係でいえば対話に当たるようなものであり、分析とは、人間関係についていえば、身体検査と戸籍調べのようなものである。」p.45
・「作品との対話と一口にいうが、これは結局作品が秘めている体験及び価値展望と、自己の体験によって深められている私との対話ということができよう。」p.45
・「美について思索することは、決して机上の空論ではない。今まで述べたことによって、われわれのごくありふれた観光の体験、また芸術作品との体験、生活環境への反省というような誰にでもありうる体験を通じて、美の思索は可能であると同時に、必要であり、かつまた有益であるということを、きわめて論理的に示したつもりである。」p.54
・「翻って、われわれが日常芸術と思っているものを反省してみると、そのほとんどが複製品であり、翻訳であり、結局は価値の点で巨大である原作のミニアチュール(雛型、小型版)であると言わざるをえないし、かりに本物の作品に接するということがあっても、それはたいてい、博物館の中に据えられていて、故郷を奪われた姿である。ということは、われわれはしばしば真の芸術体験を構成しているのではなく、疑似体験としての芸術体験、または教養体験としての芸術体験をしているに過ぎない、ということを意味するのではないか。」p.70
・「今わざわざむつかしい字形でここに紹介するこの「藝」という字は、漢代の初期(前二世紀頃)に今日の形の文献として成立していた『論語』や『周禮』にも見られるもので、もともとの意味は「ものを種える」ということであり、人間の精神において内的に成長してゆく或る価値体験を植えつける技ということを意味するから、私の見るところでは、洋の東西を問わず、今ここで主題としている文化現象を表わすにはこれを使った藝術が一番適切な言葉なのではないかと思う。ただし、今日本で使っている「芸」という字は、もともと「藝」の略字ではなく、漢字本来の伝統では立派な本字なのであるが、「草を刈りとること」であって、「ウン」と発音し「クサギル」と訓む言葉で、「藝」の語感とは全く異なるし、「芸術」と書けば農業の田畑の草をとる技術と同じ意味になるが、しかし、当用漢字の制度では、「ゲイ」と読んで「藝」の略字であるという風に定められ普及してしまったのでこういう間違ったことに妥協するのはよくないことではあるが、その制度のもとに育っている多くの読者の便をはかれば、この字で藝の意味を理解するほかはない。」p.75
・「人間によって発見される秩序をもった自然的存在を、一定の手続きにより、価値を結晶軸にして、それ自身自己完結的な、人間によって組み立てられた秩序をもつ美しく快い作品にまで作り上げる技術、それが芸術である。この意味では、芸術は物質の条件の配置変換による価値賦与であるといってよいかと思う。」p.76
・「このようにみてくると、確かに東洋と西洋においては、芸術や美についての理念がまったく歴史的には逆の展開を同時に行なってきたと認めることができる。なぜならば、西洋においては、今述べたように古典的芸術理念は模倣的再現であり、近代的理念としては、表現が新たに成立し、しかも、そのような観念が成立してから、形態的にいわば未完成の作品が開かれた未来を秘めるものとして尊重されてきている。これに対して、東洋においては古典的な理念はむしろ写意としての表現であり、再現すなわち写生はきわめて近代の考え方なのである。」p.94
・「芸術は物質の中に、非物質的な永遠者の美を喚び出すみなのである。」p.99
・「このように、芸術とは別の次元で現象する風土と民族の関係が、同一の文化圏の内部における歴史的文節として、風土的・民族的な第一次様式を、さらに時代的な趣味や風潮と関係させることになる。」p.103
・「作品が自己を言語の上に展開しながら、自らの光を世に照らし出すようにすること、それが作品の価値の現実化なのである。どうしてかというと、人間の理性は言語の次元で現実化するからである。解釈とはこのようにして、先ず第一に作品の持っている可能性としての価値を、この世に輝き出す操作でなければならない。それはいわば演奏のようなものである。したがって、解釈とはそれ自身一つの美的体験であって、それは科学の体験のように、一義的な記号の答えをもって終局となす閉鎖的体験ではなく、限りなく深められてゆく開かれた体験でなければならない。その意味で、作品の解釈とは、同一の作品に対して反復して試みられるものであり、しかも、そのたびに新しい喜びが涌き出てくるような体験なのである。」p.130
・「芸術とは、ありとあらゆる事象に潜んでいるよい物を、光を、希望を、作品の中に表わすことによって、存在するすべてのものを完全にする技なのではなかろうか。」p.134
・「映像の飛躍的な進歩は、すぐれた映画作品やすぐれたテレビ・ドラマが示すように、人間の視覚体験や聴覚体験に革命的な展開をもたらした立派な芸術を与えもしたが、同時にその電波を乱用する結果、映像という非連続的なものの瞬間的系列が、論理という構成的な連続に基づいている理性的文化の維持に対して、否定的に作用するというほど、瞬間的感覚を重んずる傾向を生んでいるのではないか。」p.148
・「現代国家はその小学教育の全過程において、音楽や絵画や舞踏を課しているから、われわれが社会人に育って来たのは、芸術を媒体にした教育なのである。 したがって、芸術は今日も学校の中で驚くほど教育的機能を果たしているという事実に注目しなければならない。」p.150
・「現代社会は一言で言うならば、拙著『愛について』(現代新書)で詳しく述べたように技術連関であると言ってよい。技術の力で現代の社会は連鎖的に関係づけられているからである。したがって、現代社会の最も本質的な特色は、技術の本質に由来するということができる。技術の本質とは何か。それは計量的に記号化された効果的な手段連関であるということであろう。したがって、技術の特色としては、記号的構造と効果的な手段という二つが挙げられる。これらと関係させて、芸術の社会的機能を考えてみよう。」p.152
・「芸術は帰するところ、個人個人の人格の、科学で完成さすことのできない真の完成を、その本来的な目的とするものということができる。ということは、芸術の美も力も、人間の精神の美しさを究極目的としていることになるのではないか。」p.160
・「ほとんどすべてのひとが芸術鑑賞の際に志向していることは、その意識を分析すれば、結局のところ、快を求めている、というほかないであろう。」p.165
・「芸術はこうして究極するところ、無意識のうちに求道者としての人格美を頂点に持つ営みなのである。」p.177
・「一つは美は決して事物的な意味で客観的な存在ではないということである。というのは、美しいものはあるが、美、すなわち美しさはこの世のどこにもない。ということは、美は無意識な存在、観念的な存在であるということにほかならない。」p.178
・「初めに、第一章、第二章で述べたことをふりかえってみると、つぎの三つに要約される。すなわち(一)美は感覚で感ぜられるにとどまらず、理性によって発見されてくるものである、(二)つぎにこの理性による美の発見を、私は解釈と呼び、これは様式や主題の歴史的分析や物理的分析とは異なり、これらを前提とするが、分析結果の水平的集積を超える体験であると規定したこと、したがって、この体験は作品を足場として、精神が美という価値に遭遇するのを目的とする立体的な構成をもつことになる。右のように規定した場合、直ちに提起されるのは、美は芸術を通じてのみ発見されるものなのかどうかという問題である。そして、(三)このような解釈は一作品のみを対象とする操作として意味があるばかりではなく、全般的な現象としての芸術一般を対象としても可能であり、かつ、現代芸術の一傾向としての原色性に関する前述(第二章3節)の解釈例のように意外な程有効な理論を導き出しうるものである。」p.186
・「芸術作品は、それゆえ、有限を介して無限へ至るはずの精神の道が刻み隠されている事物であり、世界から超越へ、歴史から普遍へ、物質から理念へ至る垂直の柱なのである。」p.207
・「さて、その「美しい」であるが、これを漢字の「美」の構造からみると、羊が大きいという意味を持っている。この羊については、色々の解釈があって、羊の肉が大きいという風に考えて、美は単に美味という味覚に由来するという感覚的な理解をする向きもあるが、私の考えるところはそれとは別である。なぜならば羊は色々な大切な漢字に関係している。たとえば、義、善などみな美と同様に羊という字をもっているではないか。それゆえ、私は、この羊は『論語』の告朔(こくさく)の?羊(きよう)(『論語』巻二・八?第三)という句と関係させて理解しなければならないと思う。」p.212
・「私は、文化は伝達されるものではなく、点火されるのみであると思う。火を点じられても、自ら燃えないものは炎を出すことができない。文化は受け取られる情報ではなく、自ら燃え立つ力である、と考える。その意味で、生産しないものは文化ではない。」p.223
・「美術品の中心的価値である美は、やはり人間の追求する価値の中では、最も人生の周辺にあるもの、あるいは、少し極端な言い方をすれば、生の余剰の装飾品、または贅沢や余裕が求める徒花と言わるべきものに過ぎないのではないか、という疑問がまた生じて来る。」p.228
・「こうしてみてくると、美はその至高の姿においては、宗教の聖と繋がる人間における最高の価値であると言わねばなるまい。美は基本的には、精神の犠牲と表裏する人格の姿なのである。この輝きは、単に義務を履行して、他人から批難されない行ないの正しさ、自己を失うことなしに、道徳的に模範となっている善の落度のなさとは異なって、積極的な光となってひとびとの心に明るい灯となるものではあるまいか。われわれは、義の人を賞讃し、善の人を賛嘆することはできる。しかし、それらの賞讃や賛嘆がわれわれを動かすであろうか。われわれの命に立ち上がる力を与えるもの、それは、輝き出てくる美しさだけなのである。美のひとのみが力を喚ぶ。」p.234
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