■ 子供達が熱中するライトノベル ■
先日、娘の付き添いで高校見学に行ったら、
今時の県立高校の図書室は、ライトノベルが充実していてビックリ。
見学に来ていた女子中学生達も、
「灼眼のシャナ」の最新刊に目をキラキラさせていました。
現代の子供達は文字離れが著しいと言われています。
息子の話によれば、
「ジャンプでも「バクマン」は文字が多いから、皆読まない。」との事・・・。
そんな子供達が、辛うじて興味を持って読むのが「ライトノベル」です。
高校の図書室も、閑古鳥が鳴くよりは、
ラノベ目当てでも、子供達が集まる方が幾らかはマシです。
■ 実は大人の小説よりも面白いライトノベル ■
冒頭、ライトノベルに否定的な書き方をしてしまいましたが、
実はライトノベルは現在の日本において、
「大人向けの小説よりも、余程面白い」事に気付かれているでしょうか?
ここで私が言うライトノベルとは、
「涼宮ハルヒ」シリーズや、「化物語」や、「空の境界」などの
一般の小説など、遥かに凌駕したスーパー・ライトノベルでは無く、
子供達が一般的に楽しんでいる作品です。
(と言っても私も息子の本箱から拝借する程度ですが・・)
ライトノベルの魅力は一言で言って「未成熟」な事です。
自分が書いている物の価値すらも分からずに、
ひたすら自分が面白いと思えるストーリーを生み出す情熱が、
ライトノベルの世界に、漫画に匹敵するエネルギーを与えています。
漫画と違って、一人で創作出来る手軽さも手伝って、
日々新しい書き手が現れては、消えてゆきます。
■ 「無数のハリーポッター」 ■
「ライトノベルって何?」と聞かれたら、
私は「無数のハリーポッター」と答えるでしょう。
全世界で大人気の「ハリーポッター」は、
日本のライトノベルを読み慣れていれば、
決して特別な小説ではありません。
夢と魔法とボーイ・ミーツ・ガールは
ライトノベルの世界では、極々ありふれたお話です。
魔法が科学に、夢が狂気になったりもしますが、
基本構造は良く似ています。
■ 「灼眼のシャナ」に見るライトノベルの特殊性 ■
冒頭に画像を載せた「灼眼のシャナ」などは、
ライトノベルの特殊性を良く表しています。
(と言っても、息子の持っていた1巻目を読んだだけで、
後はアニメを見ただけです)
1) 文章は稚拙
2) 類型化された萌えキャラが登場する
3) 背伸びして難しい内容を挿入する
ここら辺は大人がライトノベルを見くびる点でしょう。
4) 思いもよらない世界観を持っている
5) 物語がドライブし出すと、リッミターは存在しない
6) 今時の子供が共感出来る何かがある
この点が私がライトノベルを面白いと評価する点です。
「シャナ」を例に取るならば、
その世界観はハリーポッターなど足元にも及びません。
「この世」と異世界の「紅世」は部分的に繋がっています。
「紅世」から時折訪れる「紅世の徒(ともがら)」は
人間の「存在のエネルギー」を喰らいます。
しかし一方的に「この世」から存在のエネルギーが減ると、
世界の調和が乱れ、「この世」も「紅世」も崩壊します。
そこで「紅世の徒」の中から、
この世に来た「紅世の徒」を狩る者が現れます。
彼らは人間と契約し、
契約を交わした人間は「フレームヘイズ」という異能の人となります。
「紅世の徒」に存在を喰われた人間は、
しばらくは人間の燃えカスである「トーチ」として存在します。
「トーチ」は蝋燭が消えゆく様に、その存在が徐々に失われ、
いつしか家族や友人にすら忘れされてゆきます。
「トーチ」が消えた時、写真などの記録や所持品も含め
トーチに係わる全ての存在が、この世から消え去ります。
「この世」と「紅世」の関連性はとても斬新です。
■ ハリーポッターは異世界の中から出られない ■
ハリーポターでは魔法の世界は、
イギリスの子供達の多くが通う寄宿制の学校の姿を取ります。
そこでは「寄宿学校」という非日常の異世界は存在しますが、
「異世界」と「現実の世界」の関係性は希薄です。
「異世界」での戦いは「現実世界」でも行われますが、
その影響は「異世界の人々の社会」にしか及びません。
読者はハリーポッター達が駅のプラットホームからすり抜けて行く
異世界を覗いて楽しみますが、異世界と現実世界は隔絶しており、
マグルである私達にとってヴォルデモートは現実的な脅威ではありません。
言うなれば、ハリー・ポッター達は異世界から出られないのです。
■ 「理由の無い暴力」との戦い ■
ところが「シャナ」の主人個の「坂井悠二」にとって
「紅世の徒」は現実的な脅威です。
「紅世の徒」だけでなく「フレイムヘイズ」も人間的価値観を有していません。
「フレイムヘイズ」である「シャナ」は世界を回復させる為には
「紅世の徒」同様、「存在の力」を何の躊躇も無く奪うのです。
これは「坂井悠二」にとっては「理由の無い暴力」以外の何物でもありません。
異世界からやってきて、勝手に戦う連中の都合で、
親友が失われ、家族が危険にさらされ、
そして彼自身は自分が「トーチ=死者」である事を知るのです。
これは現代の子供達が抱いている「漠然とした恐怖」に共鳴します。
バブル崩壊以降に生まれた子供達は、
社会全体が持つ圧迫感の中で成長して来ました。
「努力が未来を切り開く」という楽天的な思考は彼らにはありません。
むしろ「社会」という「圧倒的な力」を前に、
あまりにも非力な個人の存在を、彼らは実感しています。
そして、彼らが実存を問う時に、
それはあまりにも「はかない存在」に思えるはずです。
今にも消えそうな「トーチ」の様に感じているのかも知れません。
■ 「人間性の回復」のストーリー ■
一方、強者であるハズのフレイムヘイズも、
その存在の根源が非常に不確かです。
「シャナ」は名前がありません。
その能力から「炎髪灼眼のうち手」と呼ばれたり、
手にする刀の名前をそのままに、
「贄殿遮那(にえとののしゃな)」と呼ばれますが、
本来名を持たない存在です。
「坂井悠二」はそんな彼女を、強引に「シャナ」と呼びます。
少女は初め、名前を拒絶します。
「命名」には古来、「呪縛」する力があると考えられています。
自然現象の様な不確かな力を「命名」する事で、
人々は「単なる脅威」を、「類型化した脅威」に変えてきたのでしょう。
妖怪の成り立ちなどが良い例なのかも知れません。
同様に西洋の童話の魔法使いは「名前を知られる事」で滅びます。
異能の力は、「類型化」される事で、「実存」に変換され、
「論理的に対策が検討される対象」となるのです。
「単なる経済危機」よりも「バブルの崩壊」と呼ぶ方が、
対策が明確になる事に似ています。
「炎髪灼眼のうち手」が「シャナ」という名前を拒む理由もここにあるのでしょう。
「呼称」される事によって、「認識」が生まれ、
「認識」が「関係性」に発展する事で「存在が縛られる事」を躊躇していたのです。
簡単に書けば、「友達になる事」を躊躇したのです。
ここにも現代の子供達の心がすこし透けて見えます。
集団の中で、「通り名」的なキャラを演じる子供達は、
「真名=素の自分」で相手と接する事を嫌います。
「シャナ」が名前を受け入れた時、
フレイムヘイズから、人間へと変化が始まります。
■ 消える事の無いトーチ ■
一方、「坂井悠二」は偶々、
「零時迷子」という「宝具」をその身に宿しています。
「宝具」とは、古来誰かが作った魔法の道具で、
「零時迷子」は毎夜0時になると、
「トーチ」の存在の力を回復させる「宝具」です。
「坂井悠二」は「零時迷子」の力によって
「消える事の無いトーチ」としてこの世に存在し続けます。
「死んでいる」のに、「生き続ける」存在です。
これはフレイムヘイズと対を成す存在です。
「存在」を捨てて、「永遠」を生きるフレイムヘイズと、
「存在」を奪われながらも、「永遠を手に入れた」一人のトーチ。
主体性の差こそあれ、彼らの存在は非常に似ています。
■ 人間性の回復とは ■
アニメは3シーズン目に突入しています。
「トーチ」の炎が一度は消えた「坂井悠二」は、
しかし強大な力を持つ「紅世の王」と一体化する事で蘇ります。
「紅世の徒」の王として君臨する「彼ら」の目的は「存在の回復」です。
その強大な力故、「因果の及ばぬ果て」に封印された己の復活を願う「紅世の王」と、
「坂井悠二」の目的は、根底で繋がっているのです。
「坂井悠二」は絶大な力を持つ敵として、
「シャナ」の前に再び現れます。
しかし「坂井悠二」の目的は、自身の復活などでは無く、
フレイムヘイズとしての存在からシャナを解き放つ事にある様です。
「紅世」と「この世」との繋がりを断つ事で、
フレイムヘイズの存在を無効化するのでしょう。(私の勝手な想像)
結局、「灼眼のシャナ」とは、「存在の回復」の壮大なストーリーなのでしょう。
■ 未熟さと、達観のアンバランスが魅力 ■
多くのすぐれたアニメやライトノベルを読む機会に恵まれた
日本の若い表現者達は、あるい面で非常に早熟です。
ある種、社会に絶望し、そして若くしてある種の達観を得ます。
一方で彼らは歳相応に未熟であり、
未熟と達観のアンバランスがライトノベルの中には氾濫しています。
桜庭一樹の小説が面白いのも、このアンバランスさ故だと私は考えています。
近作の「伏」においても、このアンバランスは際立っており、
ほとんどライトンノベルの乗りの「江戸編」と、
卓越したセンスで歴史ファンタジーを構築する「安房編」の差に驚きます。
一方、「灼眼のシャナ」の魅力の一つは、「言葉選び」にあります。
稚拙な文章の中に、「封絶(ふうぜつ)」だの「調子の読み手」だの
「頂の蔵」だの、「天壌の劫火」だのという言葉が連なります。
それらは、何故か本文の中にあって、キラキラと輝きます。
これが流麗な文体の中にあったなら、これ程までには輝かないはずです。
このギャップも、ライトノベルならではの楽しみです。
■ アニメは小林靖子節と渡部高志節の激突 ■
いろいろ深読みすれば、大人でも十分に楽しめるライトノベルですが、
やはり、未熟な文章を通読するのは、私にもきつい作業です。
そこで手っ取り早く、その世界を楽しむのに、アニメは有用です。
ライトノベルの人気作はだいたいアニメ化されるので、
手軽に見る事が出来ます。
「灼眼のシャナ」シリーズの脚本は、
このブログでも何度か取り上げている小林靖子です。
40代のパパ世代には、戦隊ものの「ギンガマン」のメインライターと説明すれば
分かり易いでしょうか。
あるいは「仮面ライダー電王」のメインライターでお分かりかと・・。
小林靖子は、「くだらない」と一蹴されがちな「子供番組」を、
「大人でもハマってしまう」番組に変貌させる才能の持ち主です。
基本的には「自己犠牲」の物語が得意ですが、
一方で、話が重たくなり過ぎる欠点を持った脚本家です。
一方、監督の渡部高志は、経験が豊富です。
妙に小じんまりとしがちな現代アニメ界において、
永井豪作品を作っていた時代の東映動画の様な、
ハチャメチャなエネルギーを感じさせる演出を見せたりします。
小林作品は、結構軽い演出と相性が良く、
逆にシリアス展開では失敗する事が多様です。
「シャナシリーズ」も、OVAではリアルな表現を試みたりしていますが、
やはり、物語がドライブする感じに欠けてしまいます。
私的には「シャナシリーズ」のアニメは、
第一期が素晴らしく、原作自体が無理に引き延ばされている二期以降は
主題が薄らぎ、退屈な作品となっています。
現在TVでは3期目が放映中ですが、
興味を持たれた方は、是非TVシリーズの第一期をご覧ください。
■ オタクに世間の目は厳しい ■
ところで、もし「灼眼のシャナ」が気に入ったとしても、
くれぐれも職場で部下の女性に「シャナって面白いよね」などと話さない事が肝要です。
世間の目はオタクに冷たいのです。
先日も仕事先で、「夜中に仕事の手を休めてアニメを見るのが楽しみ」
と口を滑らせてしまったら、
一斉に周囲から「○○さんって、アニメ見るの」と言われてしまいました。
「僕はオタクだから、中3の女の子達とアニメトーク出来る」と開き直ったら、
一斉に引かれてしまいました。
クールジャパンなどと持ち上げれてはいますが、
オタク文化は、まだまだ日蔭者を脱してはいない様です。
・・・本日は、オタク・オヤジの語る、ライトノベルの紹介でした。