メルセデス A-ClassのCMフィルム。
まあ、こうやって情報が勝手に拡散して行くのですから、まさに広告代理店の思うツボな訳ですが・・・。
(これ、本日の話題にはほとんど関係無い映像です)
『ココロコネクト』の稲葉の声の「沢城みゆき」が女の子の声を当てていますが、この人、本当に変幻自在ですね。
『宇宙兄弟』ではセリカさんと、ムッタの子供時代と、犬のApoの一人三役。
あまり声優さんって興味が無いのですが、この人だけは上手いなぁーって感心してしまいます。松尾衡のお気に入りですが、『ローゼンメイデン』の真紅役は本当に痺れます。最近では『化物語』の「神原駿河」が印象に残ります。
何でいきなりこんな話題かと言うと、新シリーズの『ローゼンメイデン』があまりにも酷いので、思わず旧作1話目を見返して、何が違うのかちょっと考えてみた。
(追記 実は2話目から、丁寧な演出に豹変しました)
(総集編だから仕方が無いのですが・・・絵がキレイになって喜んでちゃ駄目でしょ!!
真紅がジュンの頬を平手打ちにするシーンのパチンという音。
旧作ではいかにも人形の小さな手が頬をやさしく叩く感じがしていたのに
新作は、もう普通のビンタの効果音。
松尾衡は音響監督も務める事がありますが、やはり音への拘りは大事です。
そういた演出上の拘りの無さが随所に現れていて、見るのが辛い・・・・
・・・って、いい年したオッサンがローゼンメイデン見てどうすんだよ!!
でも、麻生太郎だって見てたってウワサだし・・・本人も「ローゼン太郎」って言ってるし)
まあ、旧作の監督の松尾衡の演出の凄さとしか言い様が無いのですが、コメディーからシリアスの振幅が大きく、それを一瞬でやってしまう凄さ。
プレスコというセリフ先取りアニメは、声優さんのタイミングでセリフの収録を先に行い
後から映像をセリフに合わせて付けてゆきます。結果的に出来上がった作品が、普通のアフレコと違っているかと言えば、その違いはほとんど意識されないのですが、
絵の無い所で音取りする声優さん達は相当大変な様ですが、自分達の「間」でセリフを回せるメリットは少なくない様です。
欧米ではアニメはプレスコが主流ですが、声優が出来上がった絵に合わせてセリフのタイミングをつけるアフレコの方が、製作的にはローコストで日本ではアフレコが主流です。
何故こんな話をしているかと言えば、松尾衡が監督している『革命機ヴァルヴレイヴ』は登場人物も多いし、流石にアフレコだろうと思っていたら、どうやらこれもプレスコらしい・・。
12話の引き篭もりが自分の城から飛び出すシーン辺りを見ると、確かに、セリフ回しが素晴しい。
私は声優さんがどうの・・という話には全く無頓着なのですが、やはり松尾衡の作品を見ると(聴くと)、アニメにとってのセリフの役割について色々と考えさせられます。
松尾作品の独特の空気感というのは、やはりプレスコによって生まれるのでしょうか?
色々と非難が多い『革命機ヴァルヴレイヴ』ですが、松尾衡が、何を目指しているのか、とても気になり、旧作の『RED GARDEN』あたりを見返しています。
NYのハイスクールの女の子4人が、夜な夜なゾンビと戦う話しですが、テーストとしてはアメリカのハイスクールドラマそのままの感じ。とにかく、プレスコによる会話が、まさにドラマの吹き替えより余程リアル。設定はちょっとアレですが、ディテールには紙が宿る作品です。
私も不勉強で、松尾衡がプレスコを採用したのは本作からで、ローゼンメイデンはアフレコで製作されていますね。
松尾衡のプレスコ作品で一番凄いなと思わせるのは『紅』。
第6話「貴方の頭上に光が輝くでしょう」は圧巻では無いかと。
この作品に比べると『夏雪ランデブー』あたりはセリフがグイグイ押してゆく感じは後退しています。
『ヴァルヴレイヴ』でもいきなりミュージカルが始まってファンを激怒させましたが、『紅』の6話のこのシーンまでの積み上げがあるだけに、ミュージカルシーンの味わいが深い・・・・。
ぷぷぷ!!・・・済みません、つい思い出し笑いが・・・・。
しかし、こんなシーンにこのヌルヌル動く作画って・・・気合を感じます。
(町内会の夏祭りの出し物の練習のシーンですが、悪乗りしてとんだ事に・・・)
このいきなりミュージカル演出は『RED GARDEDN』の一話の最後に登場します。
松尾衡は反対した様なのですが、その後何回かやっている所を見ると気に入っているのかも。視聴者としては、物語の世界に没入している所でいきなり歌いだされると
強引に作品世界から引き剥がされる訳で非常に当惑するわけですがこれを演劇作品のブレヒト的客体化と分析している人も居る様です。まあ、私としては上のシーンで抱腹絶倒できるだけで幸せな訳ですが。
松尾作品に共通して感じられる違和感があるならば、視聴者が登場人物に完全に感情移入する事が阻害されている事では無いでしょうか。どこか演劇的な距離感があって、登場人物達は舞台俳優を遠くから見ている雰囲気がある。
『革命機ヴァルヴレイヴ』に感じる違和感も、学生達は実存的では無く、彼ら自身が学園生活を演じているかの様に見える点では無いでしょうか。
この手法の最たる例は、『革命少女ウテナ』や『廻るピングドラム』の幾原邦彦の小劇場的な演出手法ですが、松尾衡の作品は、幾原作品程は物語の外側から語られる事はありません。ただ、観察者としての松尾衡の醒めた視点がいつも働いているように感じます。
あるプロットの中にキャラクターを配置したら、キャラクター達はどのように動く、どのように語るのかを観察している視点。
だから、プレスコという手法で、先ず声優さん達に自由度の高い中で演技をさせ、その化学反応の結果を、作画のフィードバックする事で、製作者という本人の手の届かない所で、作品が自律的に完成して行く様を楽しんでいる様です。
『革命機ヴァルヴレイヴ』に感じる違和感は、普通なら監督が物語りの支配者たる所を、物語自体の勢いで、作品が自律進化するままに任せている点にあるのでは無いか?
宮崎駿なども、詳細なシナリオが完成する前に製作に入り、物語の自律性にある部分を委ねていますが、それをTVシリーズというスケジュールの中で行なえる手段がプレスコなのかも知れません。
プレスコかアフレコかと言う問題は別として、世間的には『ローゼンメイデン』の諸作が、松尾衡の最高傑作なのかなと思っています。
大人が見て、どうこうという作品ではありませんが、回を追う毎に人形達が生き生きとしてきます。それは、まさに魂の無い存在が、人間に近づくかの様な錯覚を覚えます。作品に血を通わせる力というものを強く感じてなりません。
それに比べて新シリーズは・・・・・・・。
これが作家性というものなのでしょう。