友人のご主人が亡くなっていたということを、
寒中見舞いをいただいて知ったまんじゅう顔。
車椅子生活を送っておられたということは知っていても、
生死に関わる状況だったとは思い至りませんでした。
彼女の言葉を借りれば、
「坂道を転げ落ちるように悪くなった」ということで、
わたしも、亡くなった後でそのことを知ることになり、
本当に申し訳なかったと思ったのでした。
そこで先週、その友人を訪ねました。
クリスチャンでしたので、
祭壇といっても、
十字架のみがシンプルに置かれ、
その側にご主人の在りし日の笑顔の遺影が置かれていました。
その横には羊毛フェルトで作られたご主人そっくりの人形が二つ。
亡くなった後、
羊毛フェルト作家さんに頼んで作ってもらわれたようです。
なんとも可愛くユーモラスで、
ご主人のことをあったかい気持ちになって思い出すことができました。
ただ、
まだ亡くなって数ヶ月ですので、
ご主人の闘病生活を物語るものが、
部屋の隅に残されていて、
これから徐々に片付けていくという友人。
最期の数年間の様子をお聞きし、
最後までご主人と寄り添い、
看取られたことに、頭がさがる思いでした。
もともと豪快な彼女、
まだまだ大きな悲しみを抱えておられるのにも関わらず、
気丈にしておられ、
こちらが励まされることばかりでした。
「50才にして未亡人になってしまった」と言いつつ、
「天国が近くなった」とも。
最愛の人を亡くすという経験は、
人間にとってもっとも大きなストレスであり、悲しみです。
亡くなった方が、
皆が納得するくらいの年齢になっておられたならまだしも、
まだまだこれからという年齢であれば、
なかなか受け入れられないことが多いでしょう。
その人の気持ちに完全に寄り添うなんてことはできないな、
その悲しみの深さはその人しかわからないなと思います。
でも、クリスチャンの死に対する捉え方は、
一般的な日本人の死生観とは違います。
誰しも平等に与えられる「死」ですが、
それ自体は罪の結果です。
しかし、
キリストを信じて洗礼を受けたものにとっては、
神のもとに帰る、すなわち
「天国への凱旋」なのですね。
神様は死を通して、自分のもとにわたしたちを呼び寄せられるのです。
きっとそのこともあって、
友人は「天国が近くなった」と感じたのでしょう。
「ご主人が地上での苦しみから解き放たれ、神様のもとで安らいでいる」という確信が、
彼女を強くしているのだと思いました。
最近、朝日新聞で栗原はるみさんの記事を読んだばかりだったので、
「最愛の人の死」について色々考えさせられてました。
うちの夫も、数年前、
心不全を起こし、集中治療室に。
覚悟をしたことがありました。
また3年ほど前に、
今度はわたしが車の運転中に心臓の調子を崩し、
救急車で運ばれたこともあり、
「死」というものが、もう親の世代の話ではないと実感させられています。
自分にとって、
そして自分を送る身近な人たちにとって
「よりよい世の去り方」ってどういうことなのだろうと思います。
自分として、「よく生きた」と思え、
周囲も、
人生の長さに関係なく「あの人は十分生きたし、喜んで過ごしていた」と思える死なのでしょうか。
でも、
送る側としては、
いくら精一杯その人の最期にかかわっても後悔は残るものだろうと思うのです。
そして、不慮の事故や突然の死など、
両者が予期しないところでの死は、なかなか説明がつけられず本当に辛い。
それでも、信仰の目で見れば、
送られるものと送るものたちの双方が、
わたしたちの生も死もつかさどっておられる神の御手の中にあるということが
一番の大きな慰めとなるのだろうと思いました。
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その講座に、半年前頃入ったメンバーさん。70歳代の彼女も、昨年の冬、突然ご主人を亡くされたそうです。元気が出るように、知人に誘われて、講座に入ってきたそうですが、先日は、お話を聞いていて、更に色々わかり、感心していたところです。
実は、その彼女、中学生の頃に結核に罹っていることが発覚し、高校には行けず、更に二十歳頃から5年間入院されてたそうな。幸い、移るタイプのではなく、療養所での生活は、色々と人生勉強が出来て「楽しかった」とのこと。そのうち、薬が開発されて、やがて完治。諦めていたのに、その後、結婚も出来、子どもにも恵まれ、幸せに暮らせたそうです。
実は、病気のこともあり、キリスト教にも出会い、洗礼も受けているそうです。結婚後、特に活動はしていないそうですが、やはり「心豊かにいられる」から、また教会に行こうか? と考えてるとこだそうです。
こんな身近なところに、そういう経験をされた方がいたことに、私は驚きと、感心と、色々考えさせられたひと時でした。
辛い経験をされた方でも、やはり信仰を持ってる方は、側から見ても「しっかりと」生きてらっしゃる…ように感じますネ。♪( ´θ`)
すごいタイミング。
母が,10年前に亡くなった祖母(母の母)の家で色んなものを片付けていて,
「おばあちゃんはずっと死なないと思っていた。涙が止まらない」と。
もう10年も前のことで,すっかり大丈夫だと思っていたら。
「私はあまり寂しくないよ。なんかいつも見ていてくれる気がしてるから」とLINEしたら,「そうだね」と。
おばあちゃん大好きでした。名古屋におばあちゃんの写真はないけどふとおばあちゃんに話しかけてる自分がいます。なんかすぐ近くにいる気がするのです。
今回のその方も、ポテト姫さんの講座に参加できて、自分のことをポテト姫さんを中心とした方々に分かち合うことができて、随分救われたのではないかと思います。
若い頃に洗礼を受けられたとのこと、今後教会と繋がり、さらに豊かな人生を送られたらいいなと思いました。
わたし、自分の母は病弱でしたから、いつも「死」が身近にありましたが、祖母に関しては、お母様と同じ思いを持ってました。お母様には、少しでしょうがおばあさまを送るに当たって後悔のようなものがあるのではないでしょうか。
だから、今も時々思い出しては涙が出るのじゃないでしょうか。
でも、ちかこーんさんの言葉も良くわかります。わたしの祖母も今でも時々、夢に現れます。
大好きな人の死にそれぞれ繋がるわたしたち。様々な思いが交錯しますね。