(クリスマスが近いので、ちょっとこんな話も)
先週は旅行に出かけ、
教会自体をお休みしました。
その間にアドベントに入っていて、
2週間ぶりに教会に行ったら、
当然ながら礼拝堂も、そして教会全体が
クリスマス仕様〜〜。
その雰囲気だけで心が温かくなりました。
実はわたし、
この11月、そしてこれからの時期も、
夫の日曜日出勤が続いていて、
まーさんの介護のため、
教会学校の時間はかろうじて参加しても、
その後礼拝に出ずに帰宅するという日々になってます。
主日礼拝の方はというと、
家でまーさんの様子を見ながら、
オンラインで礼拝に参加しているんです。
その場に皆さんといられないのがとても残念。
でも、
こればっかりは言っても仕方がない。
PCの中に見える礼拝堂の一部、
そして皆さんの歌声を外側から見聞きして、
離れたところに身を置いてる自分は、
今の状況を受け入れながらの日々だなあと
ちょい寂しさを感じていたその時・・・。
そんなわたしに向かってか??
「救いは向こうからやってくる!」との牧師の説教。
こちら側が色々準備し、何かをしたり、
頑張ったりすることで
神の救いは来るのではない、
どんなところにいても
悔い改めた(このギリシャ語の意味は、「神の方に向き直った」「向きを変えた」)者のところに、
神様自らが救いを届けてくださるのだ、
わたしたちはただ、
その神の方を向いて待っていればいいと
聖書から語られたんです。
まさにアドベントはラテン語の「来臨」という意味で、
主役は神様の側っていう印象ですし、
カトリック、聖公会、
そしてルーテルなどのプロテスタントが用いる
「待降節」(語源はアドベント)という教会暦は、
「来られるのを待つ」という人間側からの視点に見えますね。
その説教を聞きながら、
この日の聖書箇所ではないですが、
ふとこの聖書の部分が頭に浮かびました。
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、
夜通し羊の群れの番をしていた。
すると、
主の天使が近づき、
主の栄光が周りを照らしたので、
彼らは非常に恐れた。
天使は言った。
「恐れるな。わたしは、
民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
今日ダビデの町で、
あなたがたのために救い主がお生まれになった。
この方こそ、主メシアである。
あなた方は、布にくるまって飼い葉おけの中に寝ている
乳飲み子を見つけるであろう。
これがあなた方へのしるしである。」
ルカによる福音書2章8節〜12節
こちらは有名なクリスマスの場面の一つ。
イエスキリストのお誕生のニュースは、
野原で夜通し羊を牧していた、
当時の人たちから見たら
一番救いから遠くに置かれていたように見えた
羊飼いたちのところに最初に届けられました。
宮殿に住む王やローマの提督でも、
エルサレムの富裕層でも、
律法学者などの宗教家ではありませんでした。
「自分は救いから遠くにいるのでは」
と思っている者たちのところに、
それまでは神様へのどれほどの信仰があったかどうかも
わからない者たちのところに届けられたんです。
ただ、彼らは受け入れました。
天使が現れ、
イエスキリストのお誕生の知らせを告げた時、
彼らは「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせて
くださったその出来事を見ようではないか」と話し合い、
急いで出かけていったのです。
神様の招きに、
素直に向きを変えて出かけていったからこそ、
彼らはイエスキリストのお誕生の場に
居合わすことができたのですね。
遠いところから、
ど〜〜んとダイレクトにやってくる神の恵み、
そんな感じでしょうか。
これは単純な場所や距離だけの問題ではないですね。
わたしたちの心の有り様とも
関係します。
説教後の
献金の奉仕に立たれた信徒の方が、
「救いは向こうから来るというお話が心に沁みました」
と、少し声を震わせて祈られました。
PCのこちらにいるわたしだけでなく、
礼拝堂にいる皆さんの心に
同じように届いたんだなとよくわかり、
空間を超えたつながりも感じました。
わたし自身は、
今週、もう一度心を神様に向き直って、
心を整えながら、
日々を過ごしていこうと思います。
いい1週間のスタートとなりました。
↓二つのランキングに参加しています。
手帳に限らずそれぞれポチッと押して応援してくださると嬉しいです。
励みになります。