「徒然草」は、兼好法師(吉田兼好)、鎌倉代の末期に書かれました。先日テレビで古文と現代語訳、簡単な解説付きで放映されました。『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)です。
ブログ、題名「つれづれなるままに」と何気なく付けた題名、テレビの解説を聞きながらこの題で良かったのかなと思いながら古文、現代文を読み返しています。
[古文]
つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ
[現代語訳]
手持ち無沙汰にやることなく一日を過ごし、硯に向かって心に浮かんでくる取りとめのないことを、特に定まったこともなく書いていると、妙に馬鹿馬鹿しい気持ちになるものです。 ブログを始めて約7年同じ心境、この題で良かったのかなと思いながら また日々の生活を書こうかなと思いました。
このような一節も書かれています
[古文]
人は、かたち・ありさまのすぐれたらんこそ、あらまほしかるべけれ、物うち言ひたる、聞きにくからず、愛敬ありて、言葉多からぬこそ、飽かず向かはまほしけれ。めでたしと見る人の、心劣りせらるる本性見えんこそ、口をしかるべけれ。しな・かたちこそ生れつきたらめ、心は、などか、賢きより賢きにも、移さば移らざらん。かたち・心ざまよき人も、才なく成りぬれば、品下り、顔憎さげなる人にも立ちまじりて、かけずけおさるるこそ、本意なきわざなれ
[現代語訳]
人は容姿が優れているほうが良いと思われがちであるが、聞き苦しくない楽しい話ができて、程よい愛敬があり言葉数の少ない人のほうが、向かい合っていていつまでも飽きることがない。反対に、外見が良いように見える人の性格が悪くて、その悪しき本性が見えたときには本当に残念に思う。家柄・容姿は生得的なもので変えられないが、性格や教養は変えようと思って努力すれば変えることができる。一方、容姿と性格が良くてもそれに見合う教養がないと、醜くて下品な相手から議論で押さえ込まれてしまって不本意なことになってしまう。(西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫)の中から引用しました)
私たちにも良き手本になりますね。