十勝清水の第九「歓喜のみちしるべ」が今日放映されました。今回は30周年、公募で集まった合唱団員は中学生から80歳まで231人、札響の演奏に合わせて歓喜の歌声が流れ、この30年間、この第九にかかわってきた清水の団員の生活の様子、30年たち町は様変わりしているようですが、歌う団員の心はひとつ、1千万円もかかる費用を町民の努力と熱意で集めコンサートを開くことが出来たことも知りました。町民上げての手作りのコンサート、この合唱団を率いる高橋先生のお姿にも心打たれ、再度胸が熱くなる思いでした。5年後の事はわかりませんが、元気であればまた参加してみたいと思いますね。
昨夜は楽しいお酒で今年を締めくくりました。YOSAKOIのメンバーが今年亡くなりました。踊り子のリ-ダーとして、いつも先頭をきって皆を引っ張ってくれた彼女、まだ若くして癌であっけなくいってしまいました。私たちも来年は皆無です。一日一日を大切に・・悔いのない人生を精一杯生きていかねばと・・1年に一度の集まり来年も皆元気で会いましょうと約束して分かれました。メンバーの中に皆の主治医、女医さんがいます。風邪だ・・血圧の薬だと・・いつも患者であふれんばかりの中、冗談を言いながら先生や看護婦さんの疲れを癒しに行く仲間がいたり、皆のカルテは頭の中・・皆聴診器を通して裸の付き合い・・・私たちもすっかり体を預けて安心しています。
今年も後4日で終わりです。泊まりに来た孫も今日はお友達の家に泊まりに行ってしまいました。おばあちゃんは欲しい物を買ってくれるやさしいおばあちゃんとでも思っているのでしょうか。欲しい物を並べてつぶやいています、ご冗談でしょう・・そんな生易しいおばあちゃんではありませんと・・突っぱねて・・・。
娘の風邪がうつり、二人でせき、くしゃみが止まりません。外に出たら、すっきりするだろうかと近くのスパーに二人でマスクをして買い物に出かけました。買いだめの食料がまだ冷蔵庫の中にあふれ、それをまず食べなくてはと思いながら・・・娘の車を当てに重いものを運んでもらおうかと、店は正月用の食料品でさまがわり、煮豆の豆から金時のサツマイモ、煮しめの材料、かまぼこ類など、見ているだけで気持ちはもう正月、不思議なものです。昔はどの家庭でも年末は大掃除、買出し、30日から料理作りが始まったものです。今のようにお店に行けば何でもそろうことなどなく、すべてが手作り、4姉妹の3番目・・母の仕事を手伝うことなく、食べる一方、それでも買出しには喜んで行きました。
大晦日は仙台はナメタかれいの煮付け、年の市にはナメタが並び、弟も居たので7人分、7切れ取れそうな大きいナメタを・・2~3匹も買っただろうか。それを持つのは私の役目、枝まめと数の子、松島の生ガキと・・買い物を終え、必ず着いてきたオダチンにそば屋に入って温かい御そばを食べたことが思い出しました。仙台、その風情今も残っているのでしょうか。
明日は孫、葉ちゃんが来るとか中1大きくなったことでしょう。夜は最後の忘年会、ヨサコイ仲間10人が集まります。もう10数年も続いています。年齢はバラバラですがヨサコイを苦労して立ち上げ、7年間ではありましたが、全力でぶつかっていった仲間です。風邪も今夜でおさらばしてとは思っていますが。
「きょうダビデの町で あながたのために
救い主がお生まれになりました。
この方こそ 主キリストです」
新しい年も皆様の上に神様の祝福が豊かにありますように
Merry Christmas!
昨日は懐かしい大阪城1万人のコンサートを聞きました。来年はまた是非参加したいと思いながら・・どうして「第九」は暮れに歌うのかと聞かれましたので・・。
日本での「第九」演奏会は、初演から100年後、1923年11月、東京音楽学校で行われました。この「第九」を広めたのがHNK交響楽団、年2~3回のペースで演奏会をし、演奏会の時期は決まっていた訳ではありませんでした。しかし同交響楽団常任指揮者のローゼンストック氏が1937年、年末の演奏会に選んだ曲目が「12月の第九」の始まりだそうです。演奏が1時間を越すスケールの大きさ、印象的なリズム、ハーモニー、終盤に近づくに従って盛り上がる。人々は一年間の締めくくりにはピッタリと感じ、戦後暮の演奏会に定着したそうです。また終戦後食糧難やインフレ、生活が苦しい楽団員の年越しの資金確保の為だったと言われ、「第九」の年の暮れの演奏会は今尚続いて居るようです。現実的ですね。
12月十勝清水での「第九」コンサートの様子はHTBで29日17時から放映されます。
また来年早々2月26日から東京、国技館でコンサート、歌う幸せをかみ締めて力いっぱい歌ってこようと今から楽しみです。
今日でやっと仕事が終わりました。あれこれと大役を引き受け、精神面でも大分疲れました。私も並みの人間だと実感し、精密検査の眼も異常無し・・これもストレスからでしょうか。私にはストレスなど無いと思っていましたが・・。暮れはのんびりと過ごすつもりです。年賀の版画もこれから・・寒中見舞いには間に合うかも。
占と易は同じなのか、違うのか良く判らないが、毎日、新聞で初めに目を通す記事「お悔やみ欄」、知っている方が居ないかと見、それから同じページにある「きょうの運勢」、生まれた月をチラリト見、悪いときは無視、良き運勢のときは心躍らせ、吉報を待つ。
「あたるも八卦、あたらぬも八卦」必ずしも当たらなくとも通用することもあることから、取りっぱぐれのない仕事と言う意味で占を「裏が無い」、と言う意味で「裏無」とも書くことを知っているだろうか。
人の心は単純なもの良き時はその日がルンルンと過ごせるし、悪いときは自重し慎重に、たまにズバリと当たる事もある、改めて当たるんだと感心したり、もちろんはずれ・・やっぱり占だと単純な私です。
良く風邪を持ってくる娘・・子供相手の仕事では仕方が無いことだそうですが・・その度に私も要注意・・、この忙しい年の暮れだと言うのに
今日は二人で病院へ、娘は風邪薬、私はいつもの血圧の薬、今日の運勢は「強運」・・強運?・・・・病院の帰りに立ち寄った友から頂いた酒、沖縄の焼酎30度、ビールまで・・昼ごはんもご馳走になり、これも強運だったからかな・・娘の風邪にもびくともしないこれも強運かも。
月1回、子育て中のお母様と幼稚園前の乳幼児でしょうか。わが地域4ヵ所の子育てサロンがあります。
今日はクリスマス会と言う事で、あるサロンにお邪魔しました。朝からの雨模様集まりはどうかなと心配しながら行きましたが10組の親子が集まり、係りの方の人形劇を食入る様に見ていました。
1歳半から3歳ぐらいの元気な子どもたち、今日はサンタさんが来ると言うので楽しみにしていたのでしょう。サンタさん登場には皆驚き、袋の中身も気になるようです。
サンタさんを引き受けれくれた会長さんも、また地域のお手伝している方がいるからこそ、このようなサロンができるのだと感謝しながら今日は特別にカレーライスも用意したとか、みんなでご馳走になりました。
現在高齢者の閉じこもりが多く、見守り活動をしながら、一人でも多くの方が行事に参加するよう地域は考えていますが、しかし高齢者ばかりではなく子育て中のお母さんも同じようなケースが多いと聞きます。
家の中で一人で子どもと格闘、ノイローゼになったり、幼児を激しく怒る、幼児に自分の気持ちをぶっけてしまう、幼児虐待が多いとか、このような場所に多くの親子が出席し、子どもは子供同士で遊び、母親はお互いに悩みを話し合う、良い事だと思いながら・・あとのサロンにも出てみようかと思って帰ってきました。
24日、月一の例会があります。今年最後の会議、毎年ケーキで締めくくっていましたので今年もと、早めに注文しようと・・行く前に様子を、ネットや電話で確認を・・もう何所も予約は引き受けず、自分の店のケーキで手がいっぱいとの返事、28人分のショ-トケーキなど予約は引き受けません、当日並んで買い求めてくださいとの返事でした。
クリスマスだから皆同じようにケーキを食べなくとも、普段だとてうまいケーキを食べているのに、何もこの日に限ってとは思いながら・・この日だから必要なのです。24日だからどうしようかなーと・・。
クリスマスケーキは、現在のぺこちゃんの菓子メーカー不二家が明治43年、スポンジケーキを売り出したのが始まりだそうです。これが全国に広まり、クリスマスにはケーキをとなったそうです。
キリスト教徒に関係ない私ども、イエス・キリスト誕生をケーキで祝うのも不思議ですし・・・・ケーキを食べ終わり、そうケーキの前には、冬至かぼちゃがありました、すぐ正月、今度は餅を食べ正月料理を食べて・・・これも季節、食の節目節目のなくてはならない行事の一つなのでしょうか。
2月になればチョコ、3月はクッキー、5月は柏餅、菓子メーカーの思惑通りに私たちは動かされています。
花キンとは、週休二日制の導入により土曜日が休日の企業が増え、休日前の金曜の夜は遊びまわる風潮ができたことから生まれた言葉だそうです。しかしバブル時代も終わってサラリーマンにとっては死後に成りつつあるようですが、夕べは花キン、それに忘年会と、夜のススキノはそんなことを微塵も感じられない賑やかさでした。
仲間の漫画展を見てからの忘年会、時間が早かっからでしょうか、危機一髪である居酒屋に座ることができいました。・・おでん、石狩鍋、ほっけの開き、つぶの刺身、ビール、日本酒は山形のにしようと、すっかり山形の酒がお気に入りの彼、同じものを山形から息子が来る時、持ってこさせると意気込み、その酒は後で私たちもご相伴に預かると約束しながら、これまた、お腹も、気持ちも、ハイーになりなが分かれました。
展覧会に行く前に、大通公園、イルミネーション、ストロボなし、カメラは小型デジカメ、これでも結構まともな写真は撮れそうです。
友の作品と仲間の作品を撮らせて頂きました。漫画と言っても「風刺画」その年の世相がよく分かります。
-7℃寒いはずです。7時になってもまだ薄暗くつい寝坊をしてしまいそうに・・。もう子ども達の通学時間、私も暖かく身支度をして外に出ました。これが北海道弁・・しばれるなのでしょう・・鼻先がツンーと・・それにしても子ども達は元気いっぱいです。
おはようーと言いながら駆けていきます。
この頃の愛犬衣装持ちです。擦れ違うお犬様、季節季節に合った衣装を着せられて散歩・・・お犬様にとっては迷惑千万なのでしょうが・・。でも今日の様にしばれる日は、暖かなのかもしれません。だったら・・靴も履かせたらいいのにね。足元が冷たそう。
お猫様の衣装はあまり見かけませんが、娘が被り物を借りてきました。兎年にあやかって・・着せてみました。
道行く人々をいつも眺めている窓辺です。道行く人が見たらビックリするでしょう。
爪とぎ用の箱ですが昼の寝床でもあります。デブなのでいつもはみだぎみ・・衣装は大嫌い・・固まっているだけです。
これは犬用の服でしょうか、 自然が・・ダニーちゃんの自慢の毛並みはわかりませんものね。
朝から落ち着かないお天気、、今日は大学終業式、どの講座も今日は納会、そして忘年会とか、雨がみぞれに変わりました。カメラ講座は、先日文化祭のとき反省会を、忘年会ありませんと言っていましたが、声がかかりました。希望者で忘年会をと・・全員行くのかなと思っていましたが、女性は私一人、勿論女性は三人しかいません。あとの二人はいつも誘っても参加がないと・・22名の仲間、16名が集まりました。皆さんの名前はまだ覚えていません、午後の講座スライドシヨーの作品と名前を照合しながら、一人一人と話を・・大学1期生もいます、大学は今年24年目、もう84歳位でしょうか。カメラ一筋・・2期生、4期生と80歳の方々・熱くエネルギッシュにカメラの魅力を語るのは青年、カメラ1年生の私など、足元にも及びません。今日のスライドシヨー、私は今年のまとめ、「2010年フォト作品」今年の撮影会の作品を5分でまとめました。
撮影会に入ると皆バラバラに行動・・撮影に夢中、話をすることもなく、また新人の私の席は一番前、後ろを振り向くこともなく2学期が終わりました。今回、皆さんとお話・・カメラの魅力を再認識・・奥が深そう、じっくりとカメラに取り組みたいと思いました。
町内世帯数は240~50位でしょうか。小さな単町です。高齢者と言われる65歳以上の方が92名、4人に一人は高齢者、今回は65歳以上の方々に、「緊急連絡カード」をお配りしました。先日の老人クラブの忘年会、出席者の方には説明をして手渡しましたが、まだ40名ほどのカードが手元に残っていました。
一軒一軒訪問、今日は日曜日、朝から絶え間なく雪が降り続いています、留守の方のためにメモも用意しました。道順を考えながら雪の中を訪問・・・ほとんどの皆さんが在宅・・先日ある方が用事があり家を訪問するときは、お天気の悪い日、お天気が良い日は自分の為に取って置こうと・・・そんな話を思い出しました。残りは3件と・・今年中にと思っていましたのでホットしました。一人一人手渡し、会話をする・・これもボランティア、見守りの仕事でしょうか。
今年のお天気はころころと変わります。雪、雨と交互にその度に道路はツルツルと転んだらおしまいよ・・との合言葉・・ご苦労様、足元に気をつけて転ばないでくださいねと・・私の方が励まされています。
9日、10日仲間は違えども同じような形の忘年会、これからまだまだ続きます。
そもそも忘年会とは年末に慰労を目的として執り行う宴会、これは台湾や中国にもありますが日本固有の文化だそうです。忘年会の起源ははっきりと判っていませんが、いくつかの異なる会合が次第にひとつとなり「年忘れ」となり、1430年頃室町時代、民衆の行事として行われるようになったとか、当時は皇族や貴族の「年忘れ」、お酒を飲んではいましたが、メイン行事は和歌や俳句を楽しむ厳かな行事でした。その後江戸時代になると武士は新年会も加わり、忘年会は1年の憂さを晴らす年忘れとして、酒や、つまみを静かにたしなむ行事として行われ、一般の多くの人々が楽しむ現在の忘年会の形に近くなったのは明治時代、官僚にボーナスが出るようになり、職場での宴会が始まりだそうです。
同じ町内会の忘年会、お料理も女性の手間を省くために、この頃は近くのお店のオードブル、2~3回と毎度同じ料理が続くこともあります。カロリーは高く、味付けは濃く、脂っこさは見ての通り、判っていながらつい箸をつけますが・・自重しなければと思いながら昨晩も注がれるままにいただいてきました。あと4~5回はあるでしょうか。ほどほどにし、楽しいお酒であれば、仲間の思わぬ発見もあつたりして・・。
午後の講義は16時30分大通公園イルミネーシュン前集合、もてあました時間は古巣の陶芸教室へ顔を出しました。今年の干支、ウサギなど楽しそうに創作、懐かしく皆さんの作品を見せていただきました。
このような写真撮影は始めて、ストロボを借りて撮影開始、レンズの頭をくるりと回す・・これが回りません、またズームをすばやく回す、丸が半円形になったり、伸びたりと300枚ほど・・腕が痛くなりました。
でもこの写真だけではどこの風景か分かりませんね。これも良し悪しかな・・・。
雨と風荒れ狂った天気も出発当日は合唱団の熱気で晴れ上がり、清水はどんなコンサートになるのだろうかと、胸膨らませながらバスに乗りました。北海道のほぼ中心、帯広から近い十勝清水、大自然に囲まれた酪農と、農業の町でしょうか。
着いたときはオリエンテーション、リハサールの最中早速全員、着いてすぐリハーサル、今回は書面で指揮者の指導が、それに沿っての発音、合唱指導、何回も繰り返し、我々の「999の第九とはまた違った歌い方・・これも同じ第九でも指揮者によって、歌い方がいかに違う・・これもいつもながら勉強になりました。
リハーサルの後はすぐ前夜祭、清水町民あげての歓迎会、手作りの料理が並び、食べきれないほどの品数、あつあつのジャガイモ、とうきび、清水特産のヨーグルト、ポテトサラダ、混ぜご飯、赤飯、お汁粉まですべて主婦の手作り次々と運ばれて机の上は満杯、お酒もたっぷり、十分にご馳走になりました。人口1万人の町民がこの「第九」にかける意気込みが感じられました。
清水町の第九は30年前「清水文化センター」のオープン記念行事として、第1回清水第九交響曲演奏会が開催されました。指導は清水高校教諭の高橋亮任さんが30年間指導に当たりました。10年ほど前に先生は交通事故にあい意識不明の重態から奇跡的に回復されて、リハビリを続けながらの指導活動を再開い今回は、座りながらも私たちの指導にあたりました。 指揮者円光寺雅彦氏、清水の「第九」はエネルギッシュにかつ大胆に、強弱ははっきりと、分かり易い指導でした。
ゲンネプロ札響との音あわせ会場、観客は800数名分の椅子、今回は立見席も出ているとか、いかに待ち望んだコンサートかが伺えました。
まずは平らな所で1段ずつの整列していきます。 これが難関、8段最上階は、勿論長身者達私もです。しかし長身でも上は苦手の方は下の段と、この調整に時間がかかりました。230名も居ましたので。調整風景です。
私たちも8段の雛段に上りました。どのように狭い文化センターでのコンサートなのか230名もの団員がどのよう整列するのか興味がありましたが、大変な作業でした。整列から始まって30センチほどの幅しかない雛壇に8列目最上階の人が、まず整列、7段、6段、足を滑らせたら、1段目まで共倒れ、そこに第3楽章から約1時間、体は斜めにびっしりと、足も動かすこともできずに、皆汗だくでがんばりました。
いつもながら歌い終わった感激は、達成感に満ち溢れ、この歌う幸せを長く続けていきたい、また5年後の清水に来ることを皆で約束しながら解団式を終え戻ってきました。
清水町の皆さん本当にご苦労様でした。会場整理を始め、すべての食事の世話、お弁当、おにぎり、サンドイッチお料理の全ては手作り、作った方のネームが入り、漬物からケーキまで、一人一人が得意なものを手作りして持参したことが人目で、とてもおいしくいただきました。心のこもったおもてなし感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。
今朝の道新にも出ていましたが、HBCで12月29日「歓喜のみちしるべ~30年目の第九を歌った清水町~」17:00~17:55まで放映されます。是非見てください。私も豆粒に写っています。