氷鏡のお供え物 7/1/2013
氏神様と語らうねこ 7/1/2013
小さい人が、洗濯物を乾している私を呼びにきた。
「きれいなものがあるから、こっちに見にきて!」
ついて行ってみると、氏神様を祭ってある祠の前に、氷の円盤が榊の葉とともに供えてある。
朝日を浴びて、きらきらと輝く氷は、まるで古の鏡のようだ。
小さい人が、そのようなことを知る由もなく、こうした行いは、遺伝子レベルの動機なのだろうかと考えてしまう。
このところ、氏神様の脇に、ねこがいる。
毎日、なにやら語り合っているのか。
ときどき、氏神様の供物を供える台のところに座っていることもあるのだが、10歳を過ぎたねこは、神様と話す術を身につけているかもしれないので、それも良かろうとそのままにする。
氏神様も、寂しくないだろうし、ねこが今まで病気ひとつしないでいられたのは、氏神様のご加護、愛されているねこともいえる。
我が家の氏神様は、数多の氏神様のなかでも、家族の心に溶け込んでいる神様だと思っている。
中くらいの人は、遠くへ出かけるとき、試合などへ行く前、必ず氏神様にお参りする。
そして、帰ってきたら、忘れずに氏神様へ報告に行く。
中くらいの人の、心の根っこに氏神様が住まっていると思わせるくらいに。
そんな、家族の折々のしぐさに、なんともいえない安心感を持つ。
根無し草の自分とは違う、大地深くに根ざした存在の確かさ。
これは、とても大事なことなのだろう。
風雪に耐え、大地に根をおろし枝を張り葉を茂らせ、千年も生きる木のように、どっしりと揺るぎのない存在への自信を持つことだ。
きっと、これは氏神様のおかげなのだ。
良い思念、パワーを集約し、人や動物、植物に大地のリフレクター、チューナーなのかもしれないと考える。
バケツに張った氷を上手に取り出して、氏神様にお供えした小さい人は、ある波長に同調した結果かもしれない。
まだ閉ざしていない、無垢な心へと送られた信号。
それを忘れないように、写真にとって記録するのが私の役目なのか。