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疎かにしてはいけない、社会科の教育

2013-01-11 12:27:39 | つぶやき&ぼやき
義務教育課程にある子供を持つ私は、教育について考えることしばしば。
今回は、「社会」について思うことを述べてみよう。

今の子供たちは、暇つぶしのネタに事欠かない。
ほとんどの子供たちが1つ2つの習い事をし、学習塾通い、放課後何かと忙しい。
空いた時間は、片時も離さずにポータブルゲームをする。
一人でぼーっと考え事をしたり、友達と体を使った遊びをしたりする時間はないようだ。
彼らの興味をひきつけ満たすものは、一様に同じで狭まり、偏っているように見える。
会話で使われる言葉の数も少なく、「カワイイ」「キモイ」「ウザイ」「ウケル」「マジ」などで用が足りるらしい。
人皆違うはずであろう好奇心は、どうなってしまったのか。

「社会」は、地理と歴史が基礎となって、人の営みの流れや差異を学ぶものと思っている。
地理では、地球における国の位置とそれに伴う気候や土地の状況、利用の仕方で、地域の特色を学ぶ。
歴史は、文明と文化の流れを知り、人の行ってきた行為を客体化して学ぶ。
これらを学習し、よりよき国際交流や、良い未来を作るための意識を高める素地を成すのだ。
もっとも、理想論ではあるが。
現実は、基となる地理や歴史の政治的意図の絡まない教本を、どこの国でも扱わない。
そのもの自体を作るのは、非常に困難を極める作業ではある。
歴史を客観的に捉えるのは、自己のあるがままを受け入れると同等難しい。
必ず時の政治的意思に都合の良いように脚色され、歪められ、または無かったものとして抹消されるものだ。
しかし、それは、人々に誤解を与え、ある場合は洗脳し、いらぬ不和の種を植え付ける。
統治するものにとって、それは必要悪だというだろう。
多くの人々をひとつにまとめるには、外に敵をこしらえるのが手っ取り早く、足元の不満をよそにむけさせるのが効果的とされる。
でも、それでは何の根本的解決にはならない。
かといって、不完全で醜い自分の真実を直視できるほど、人は強くない。
アルカディアなどありえないし、つくれないことはわかっていても、繰り返す愚考に辟易する。
最近の日本の「社会」教育は、ゆとり教育の反動にしても、死んだ知識を詰め込む傾向が強くなってきているようだ。
少しでも、正史に近いことを書けば、隣国が抗議するからといって、穏便にことを済まそうとするのは、実に情けなく、自国の都合ばかりを考えて史実に手を加えている隣国にへつらうのは、結局のところ不和の種を育てていることではないだろうか。
確かに、隣国にもありのままの歴史を探り残そうと、隣り合う国同士協力している者たちもいる。
正しい歴史の直視から、同じ轍を踏まない道の模索ができるとして。

人を知るには、その人のバックグラウンドを知るに限ると考える。
どこに生まれ、どんな風土でそだったのか。
日本ならば、岩手県がどこにあるのか、世界ならば、カナダがどこにあるのか、ケニアがどの大陸にあるのか。
どのような人種がいて、宗教を信じ、文化があってを、せめておぼろげながらでも知っていると、なにかの機会でさらに興味がわき、次へとつながる可能性ができる。
世界の出来事に思いを馳せ、自分の未来、それから世のことを思いやるようになれるのではないだろうか。

今ある義務教育課程の小中学生に、木の幹や大きな枝を見せずに、しかも偏った部分の末端の葉ばかりを見せるのは、いかがなものであろうか。
それでは、肝心の木の絵は描けない。
描いている者自身、何の作業をしているのかわからないようでは、まったく無意味だ。
細かい肉付けは、いくらでもあとでできるのだ。
まずは、概要を、それから順に細かなことを足していって欲しい。
教育は、堅牢な国を作るための基礎なのだ。
厚く十分な基礎があって、寛容と平和が成しえるものだと信じている。
いよいよ混沌とする世界にあって、教育が安らかな世界を作る礎であると、モデルになるためにも。