rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

氷鏡のお供え物

2013-01-07 10:59:27 | 随想たち

氷鏡のお供え物 7/1/2013


氏神様と語らうねこ 7/1/2013

小さい人が、洗濯物を乾している私を呼びにきた。
「きれいなものがあるから、こっちに見にきて!」
ついて行ってみると、氏神様を祭ってある祠の前に、氷の円盤が榊の葉とともに供えてある。
朝日を浴びて、きらきらと輝く氷は、まるで古の鏡のようだ。
小さい人が、そのようなことを知る由もなく、こうした行いは、遺伝子レベルの動機なのだろうかと考えてしまう。

このところ、氏神様の脇に、ねこがいる。
毎日、なにやら語り合っているのか。
ときどき、氏神様の供物を供える台のところに座っていることもあるのだが、10歳を過ぎたねこは、神様と話す術を身につけているかもしれないので、それも良かろうとそのままにする。
氏神様も、寂しくないだろうし、ねこが今まで病気ひとつしないでいられたのは、氏神様のご加護、愛されているねこともいえる。

我が家の氏神様は、数多の氏神様のなかでも、家族の心に溶け込んでいる神様だと思っている。
中くらいの人は、遠くへ出かけるとき、試合などへ行く前、必ず氏神様にお参りする。
そして、帰ってきたら、忘れずに氏神様へ報告に行く。
中くらいの人の、心の根っこに氏神様が住まっていると思わせるくらいに。
そんな、家族の折々のしぐさに、なんともいえない安心感を持つ。
根無し草の自分とは違う、大地深くに根ざした存在の確かさ。
これは、とても大事なことなのだろう。
風雪に耐え、大地に根をおろし枝を張り葉を茂らせ、千年も生きる木のように、どっしりと揺るぎのない存在への自信を持つことだ。
きっと、これは氏神様のおかげなのだ。
良い思念、パワーを集約し、人や動物、植物に大地のリフレクター、チューナーなのかもしれないと考える。

バケツに張った氷を上手に取り出して、氏神様にお供えした小さい人は、ある波長に同調した結果かもしれない。
まだ閉ざしていない、無垢な心へと送られた信号。
それを忘れないように、写真にとって記録するのが私の役目なのか。

今また小豆を煮る

2013-01-07 00:24:24 | 食べ物たち
小豆を煮た。
昨日の夜に煮こぼして、気長にじっくりことことと、ルクルーゼの鍋で煮た。
今日の昼に出来上がったので、ぜんざいとして食べた。
家族みんな、このぜんざいが大好きだ。
始めの二回、温かいぜんざいとして食べ、煮詰まったなら冷たいぜんざいとして、もしくはバニラアイスを添えて、あるときはアンバタサンドなどで、思い思いに楽しむ。

こうして家族みんなで小豆を楽しめるのは、いつまでなのだろう。
誰か一人具合が悪く、欠けてしまってたら、今食べている小豆の味はしないと思う。
不確かな明日があるから、今が大切になる。
次に小豆を煮るとき、今と同じなんて保証はどこにもない。
甘く煮た小豆と今の幸せを存分に味合わなくてはもったいない。
忘れちゃいけないよ、これが当たり前だなんてことを。
悪いことも、良いことも、何がどうなるか分かりはしないのだから。





オーストラリア:シドニー

2013-01-05 12:33:33 | 街たち
「にじいろジーン 地球まるごと見聞録」オーストラリア大陸の東側、海に面した大都市のシドニー。
20世紀の代表的建築物のオペラハウスは、オーストラリアのシンボルともなる、非常に個性的外観を持つ。
重なる白い波頭、はたまた白い帆を揚げて大航海する船舶か、浜辺に散らばる白い貝殻のような特徴的な屋根は、建築工事をてこずらせるものだった。
その苦労の甲斐あって、世界遺産に登録されている建造物では、最も新しい年代のものである。
シドニーは、19世紀のヨーロッパ文化の影響が濃い建物と新しい高層建築物が共存する街として、未来に向かっているのだ。
また、自然に恵まれてもおり、市民の憩いの場ボンダイ・ビーチでは、思い思いのマリンレジャーを楽しみ、タロンガ動物園には、2000種類の動物がいて、なかでも稀少種の”ツリー・カンガルー”が、訪れる人を和ませてくれる。

シドニーから車や電車で2時間のところに、ブルー・マウンテンズ国立公園がある。
ユーカリの木の群生地で、ユーカリの木から揮発するユーカリ・オイルが太陽の光に当たり、辺り一帯が青く染まって見えることから、”ブルー・マウンテン”の名がついた。
ここは、先住民のアボリジニの聖地で、そそり立つ三つの奇岩”スリー・シスターズ”は、父の魔法により岩に変えられた三姉妹の伝説を持つ。
また、パワースポットの場としても有名。
ここよりさらに西へ1時間、ジェノラン鍾乳洞がある。
1838年に発見された、34000万年前の、世界でも最古のうちに入る鍾乳洞だ。
オーストラリア大陸は、太古の地球の面影を残した、貴重な場所といえるだろう。

シドニーは、海に面した街だけあって、海の幸に恵まれている。
市場には、新鮮で種類豊富な魚介類が並び、市民の胃袋と舌を存分に満たす。
カキも、もちろんあり、シドニーのカキは小ぶりで旨味が詰まっているのだとか。

シドニーの1916年創業老舗カフェ「パラゴン・カフェ」では、オーストラリアで最も古くからチョコレートを作っている。
「パラゴン・ワラタ・チョコレート」は、カフェに来たお客の注文を受けて作り出されたものらしい。
ここの「マカダミアナッツ・ブラウニー」は、チョコレートが濃厚な、紅茶によく合うスイーツ。

「ワイン・オデッセイ・オーストラリア」は、オーストラリア産ワインの飲み比べが出来る店。
厳選された50種類以上のワインを、店からカードを借りて、3つの量から自分にあった量を選び飲む。
一杯およそ200円程度で、全ての種類を堪能できる。
店の中には、バーも併設されているので、おつまみになる料理も頼んで、ワインを心行くまで楽しめる趣向だ。
これは、なかなかにいいシステム。
日本にも、このようなところあるのだろうけれど。

ちょっとレトロな趣の、”ストランド・アーケード”は、複合商業ビル。
ここには、シドニーで人気のある店が軒を連ねている。
「ダイナソー・デザインズ」は、インテリア雑貨の店。
”レジン”という強度の強いプラスチックは、ガラスのように見え、軽くて扱いやすい。
この素材を使ったカラフルでデザイン性に富んだ食器などの商品は、今かなりの人気商品という。
生き生きと働く女性をイメージした服を展開するブランドの「リサ・ホー」。
ウェッジ・ソールがトレードのシューズショップ「ゾム・シューズ」は、斬新でおしゃれな靴を並べている。
「イコウ」は、スキン・ケアとバス・グッズの店で、免疫力を高めユーカリを使ったものが一押し。

オーストラリアならではのリラクゼーション、”コド・マッサージ”。
薬草や木の束に火をつけて、その香りでリラックスし、ポプリを散らした湯につかる。
「カラマン」という、アボリジニの儀式で使う、手のひらに収まるような彫のある木片で、マッサージをする。
体に溜まった悪い気を出す効果があるらしい。

イギリス人などが移民し築き上げた国、オーストラリア。
アメリカなどと同様、先住民を追いやってできた国。
文明に遅れた蛮民として省みなかったものが、今では観光などの目玉になっている。
彼らが永きに渡って蓄えた知恵を、我が物のように消費していく移住者たち。
そこに、人間の浅ましさと狡さをみて、鼻白み心が冷え切ってくる。
もっとも、オーストラリアの人だけがそうしているわけでもなくて、どこでも支配したものたち、マジョリティーになったものたちが行うことである。
どこにでも、光があれば闇もある、これは仕方のないことにしても、人の変わらなさに悲しくなるのであった。





胃袋、悲鳴を上げる

2013-01-04 15:50:46 | つぶやき&ぼやき
年末年始は、通常の5割り増しに多く食べる機会が重なる。
おかげで、私の脆弱な消化器官はぼろぼろだ。

餅と、味の濃く油を多く使った仕出し物など、重い食べ物が胃を酷使する。
普段ほとんど利用することのない仕出し物だが、とある新年会の会計をしていた家人が、もったいないからと引き取ってきて、我が家でなるべく食べることになった。
その料理は、食中毒を起こさないようにと全てに火を通し、濃い味付けをしたものばかり。
酒のあてには、ちょうどいいのかもしれない。
しかし、その量が大皿4枚分ほどもあり、家族みんなで食べようにも、かなりきついほどあった。
家人は、食べ物を粗末にすることが許せないたちだから、料理を頼むとき一般よりもやや少なめにする。
35人で7皿ならば、頼みすぎという量でもなかったはず。
でも、結果は上記のとおり。
この食べ物が豊富な時代、もったいないから食べようなどと思わないのだろう、残れば捨てるだけなのだ。
さて、その料理、2日かかって食べられるだけ食べたけれど、食べきれたわけではないく、2分の一皿はごめんなさいと捨てることにした。
その間にも、一族の新年会もあり、少なめに料理を用意しても、やはり3割程度残り、もちろん捨てずにあとで食べた。

ゆえに、私の胃袋は、悲鳴を上げている。
ここでは、七草粥を食べる習慣はないけれど、それが必要なくらい疲れきっている。
ただ、私だけ。

食べ物を食べて、たくさん食べてお腹が具合悪いとか、なんて罰当たりなんだろうと思いつつ、捨てられてしまうまだ食べられる食べ物を捨てずに食べたのだから悪いことはしていないと、なんとも矛盾しそのジレンマ、別の意味で胃も痛くなる。
それでも、食べ物を大切に食べきることを諦めてはいけない。
食べることは、命の基本だから。




軽いお金と重いお金

2013-01-03 01:23:33 | 随想たち
お金には、軽いお金と重いお金がある。
今日、子供たちがもらったお年玉は、重いお金だ。
とても重いお金だ。
大人たちが、懸命な労働の対価として得たお金ということだ。
そのことを、子供たちはまだ知らない。
実感するのは、自分が働いてお金を得たとき。
でも、働いて得たからといって、その全てが重いお金であるとはいいがたい。
労働と、それに見合った対価としてのお金の査定と配当率は一定ではなく、基準は設けられてはいないから。
そして、軽いお金はいたるところにある。
軽いお金は、もともとのお金の意味合いを失い、人間社会を狂わせる道具に変貌した。
きっと、お金が誕生して間もなくに、こうなったのだと想像する。
だとしても、お金と言う便利なものをもう手放せないだろう。
できるならば、子供たちよ、君らはが扱うお金は軽いお金であってくれるな。