rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

真冬の爆弾低気圧

2013-01-14 22:58:38 | つぶやき&ぼやき
一昨日の暖かな晴天から一変して、今日は、大荒れの天気となった。
午前10時過ぎの霙交じりの雨は、11時にぼた雪へと変り、激しく降り出した。
2時間も経つと、あたり一面真っ白く雪に覆われ、帰路の道中が心配となって、出発の予定を繰り上げることにした。
住宅街から交通量の多い道路に出てさらに驚く。
轍の部分にも路面の色がないのだ。
ところどころ、竹などが、雪の重みで道路にしなだれかかり、道の片側をふさいでいる。
ギアをローに入れ、慎重に進むのだが、信号で停止するとタイヤが空回りし、素直に発進できない。
周りの車も難儀しているようで、家までの難所をいくつか思い浮かべ苦笑する。
とにかく無事に家に着くよう、細心の注意を払って道を進んだ。
予想していた第一の難所の中ほどにある交差点で、交差する道路の信号が赤にもかかわらずに進入してくる車に寸でのところですれ違い、事なきを得る。
次の難所の手前からなる渋滞に、交差点を直進か左折か迷いながらも直進したら、カーブの続く上り坂でスリップして進めなくなった数台の自動車があった。
そこで、ほかの人たちと協力して立ち往生した車を押し上げ、また、そうこうする間に自分の車も動けなくなり助けてもらったりして、どうにかこうにかそこを乗り切った。
それから、渋滞続く国道を越えてからの第三の難所もどうにか通り過ぎ、第四の難所手前あたりから、路面状態がかなりよくなって、幾分運転が楽になる。
しかし、だんだんと風が強く横殴りの雪に変り、凍結しないうちに家に辿り着けるか心配したが、どうにか日没前に車庫に車を納めることができたのだった。

今までの経験から言うと、日中の雨のち雪の天候では、交通量のある道路に雪が積もることはなかった。
甘く見ていた、まさかこんなになるとは。
家に帰り着きテレビのニュースを見て、この大雪は急速に発達した爆弾低気圧によるものと知ったにせよ、事故にならなかったからいいものの、自然を甘く見てはいけないと、思い知らされる。

今も強い風が唸りをあげて吹いているのが聞こえる。
今夜半までに、雪は止むらしいが、凍り付いて残るに違いない。
電線などに降り積もり、この風で大きくたわんだり切れるものもあるだろう。
明日もなかなか厄介なことになっていそうだ。
雪や氷を侮らず、余裕を持ち慌てないで明日を迎えよう。
日陰や橋の上などは、数日要注意だ。
でも、いやな面ばかりではない、美しい、踏み荒らされていない雪の白銀の世界を堪能しようとも思っている。
すると愛機P50を片手に、外へ飛び出す自分の姿が見えてくる。

音楽と職人の街ニュルンベルク

2013-01-12 23:43:14 | 街たち
「にじいろジーン 地球まるごと見聞録」音楽と職人の街、ドイツ:ニュルンベルク。
ワーグナーの歌劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の舞台になっていて、今年は生誕200年を記念して音楽イベントが開催されるという。
13世紀中頃にできた聖ローレンツ教会は、街で一番古く、彫刻とステンドグラスが有名だ。
ドイツルネサンスの代表的画家、デューラーの生誕の地でもあり、デューラー・ハウスには、彼の足跡を辿ることができる。
また、この街は職人の街でもあった。
今は、職人広場の一箇所に職人が集まり、往時を偲ぶことができる。
「ツィンギーサライ」は、一番古い錫製品の店で、中世の頃から伝わる製法で伝統の品々を作っている。
「ガラスサライ」は、ステンドグラスの店、教会のステンドグラスと同じ製法で、下絵なしに絵を描いて作る。
「おもちゃ博物館」には、伝統玩具のドールハウスが展示され、その精巧な出来栄えに思わず見入ってしまうだろう。
「プッペン・シュトゥーベン・ミニュアール・ハウス」は、12分の1に縮小し本物と見紛うばかりに再現したミニチュアの店。
細部にまで拘り、遊び心を盛り込んだミニチュアは、一目見たなら虜となり、ドールハウスの世界にどっぷりとはまり込んでしまいそうだ。

では、ニュルンベルクのグルメ。
”ニュルンベルク・ソーセージ”は、大きさと味を街によって決められている。
かつて、城門が閉まってからの売買をするとき、城門の鍵穴に通してソーセージのやり取りをしていた。
そのために、鍵穴を通しやすい形状にし、味のバラツキがないようにしたのだろう。
”ブラントホイッスル・ツィプツェル”は、ニュルンベルク・ソーセージを使った焼きソーセージ6~10本を錫の皿にのせ、ザワークラウトと共に出される。
”ザウス・ツィプツェル”は、茹でソーセージのことで、タマネギとソーセージをワインビネガーで煮込んだもの。
とても体の温まる食べ物らしい。
レープクーヘンは、市民に愛される伝統菓子で、なかでも”エリーゼン・レープクーヘン”は、しっとりとした生地にナッツの歯ごたえを加え、フルーツの風味がいいお菓子。

ニュルンベルクの近くの街バンベルクは、幸運にも世界第二次大戦の戦火を免れ、中世の街並みがそっくりそのまま残っている。
二股になった川が市中を流れ、その景観から”リトル・ベニス”の異名を持つ。
城門のドアノブの彫刻”リンゴ婆さん”は、独立したキャラクターとなって、マンホールの蓋など街のいたるところに使われたり、様々なグッズとなって人々に愛されている。
ビールの有数の産地でもあり、地ビール”ラオホビール”がある。
「シュレンケラ」で造られるこのビールは、燻蒸した麦を使うことで、いぶした香りと色の濃さ、渋みを醸し出している。
このビールを使った料理”バンベルク・ツヴィーベル”は、くりぬいたタマネギにパセリとニンニクを混ぜ込んだ豚のミンチを詰め、ベーコンをのせてスープで煮込み、ラオホビールを入れたソースをかけて食べるもの。

どこの親も、子供のよりよい将来を願うもの。
ニュルンベルクでは、こんなおまじないがあるそうだ。
子供の頭の上に錫でできた漏斗を置き、いっぱい知識が入りますようにとお願いする。
微笑ましいではないか。

ニュルンベルクの街も人も質実剛健、実直な職人気質があるように思う。
あのミニチュアからしても、その本気度が窺える。
物を作ることへの拘り、極めようとする意志の強さ。
今では希薄になりつつあるものが、今も健在のようで、これからも大切に受け継いでいって欲しいと思った。
いつしか、ニュルンベルクを訪れることができたなら、職人業の結集したものたちを見てみたい。

疎かにしてはいけない、社会科の教育

2013-01-11 12:27:39 | つぶやき&ぼやき
義務教育課程にある子供を持つ私は、教育について考えることしばしば。
今回は、「社会」について思うことを述べてみよう。

今の子供たちは、暇つぶしのネタに事欠かない。
ほとんどの子供たちが1つ2つの習い事をし、学習塾通い、放課後何かと忙しい。
空いた時間は、片時も離さずにポータブルゲームをする。
一人でぼーっと考え事をしたり、友達と体を使った遊びをしたりする時間はないようだ。
彼らの興味をひきつけ満たすものは、一様に同じで狭まり、偏っているように見える。
会話で使われる言葉の数も少なく、「カワイイ」「キモイ」「ウザイ」「ウケル」「マジ」などで用が足りるらしい。
人皆違うはずであろう好奇心は、どうなってしまったのか。

「社会」は、地理と歴史が基礎となって、人の営みの流れや差異を学ぶものと思っている。
地理では、地球における国の位置とそれに伴う気候や土地の状況、利用の仕方で、地域の特色を学ぶ。
歴史は、文明と文化の流れを知り、人の行ってきた行為を客体化して学ぶ。
これらを学習し、よりよき国際交流や、良い未来を作るための意識を高める素地を成すのだ。
もっとも、理想論ではあるが。
現実は、基となる地理や歴史の政治的意図の絡まない教本を、どこの国でも扱わない。
そのもの自体を作るのは、非常に困難を極める作業ではある。
歴史を客観的に捉えるのは、自己のあるがままを受け入れると同等難しい。
必ず時の政治的意思に都合の良いように脚色され、歪められ、または無かったものとして抹消されるものだ。
しかし、それは、人々に誤解を与え、ある場合は洗脳し、いらぬ不和の種を植え付ける。
統治するものにとって、それは必要悪だというだろう。
多くの人々をひとつにまとめるには、外に敵をこしらえるのが手っ取り早く、足元の不満をよそにむけさせるのが効果的とされる。
でも、それでは何の根本的解決にはならない。
かといって、不完全で醜い自分の真実を直視できるほど、人は強くない。
アルカディアなどありえないし、つくれないことはわかっていても、繰り返す愚考に辟易する。
最近の日本の「社会」教育は、ゆとり教育の反動にしても、死んだ知識を詰め込む傾向が強くなってきているようだ。
少しでも、正史に近いことを書けば、隣国が抗議するからといって、穏便にことを済まそうとするのは、実に情けなく、自国の都合ばかりを考えて史実に手を加えている隣国にへつらうのは、結局のところ不和の種を育てていることではないだろうか。
確かに、隣国にもありのままの歴史を探り残そうと、隣り合う国同士協力している者たちもいる。
正しい歴史の直視から、同じ轍を踏まない道の模索ができるとして。

人を知るには、その人のバックグラウンドを知るに限ると考える。
どこに生まれ、どんな風土でそだったのか。
日本ならば、岩手県がどこにあるのか、世界ならば、カナダがどこにあるのか、ケニアがどの大陸にあるのか。
どのような人種がいて、宗教を信じ、文化があってを、せめておぼろげながらでも知っていると、なにかの機会でさらに興味がわき、次へとつながる可能性ができる。
世界の出来事に思いを馳せ、自分の未来、それから世のことを思いやるようになれるのではないだろうか。

今ある義務教育課程の小中学生に、木の幹や大きな枝を見せずに、しかも偏った部分の末端の葉ばかりを見せるのは、いかがなものであろうか。
それでは、肝心の木の絵は描けない。
描いている者自身、何の作業をしているのかわからないようでは、まったく無意味だ。
細かい肉付けは、いくらでもあとでできるのだ。
まずは、概要を、それから順に細かなことを足していって欲しい。
教育は、堅牢な国を作るための基礎なのだ。
厚く十分な基礎があって、寛容と平和が成しえるものだと信じている。
いよいよ混沌とする世界にあって、教育が安らかな世界を作る礎であると、モデルになるためにも。







レオナルドの真価

2013-01-09 12:18:12 | アート

東方三博士の礼拝

この、暗く混沌とした絵が好きだ。
あのレオナルドが、試行錯誤するさまが克明に記されているから。
その、大いなる未完ぶりが気に入っている。
タルコフスキーの映画”サクリファイス”にも暗示的に登場する”東方三博士の礼拝”、その相乗効果でさらにこの絵が好きになった。

かれこれ20年以上も前に、レオナルドのウィンザー城収蔵の素描展を観に行ったことがある。
観た時点では、それほど強い感動はなかったのだが、時を経るに従いじわじわとレオナルドの絵が、自分の内側に浸透してくるのを感じる。

レオナルドの素描には、線の言いようのない美しさがある。
渦巻く水と植物の葉、簡潔に馬の肉体を描き出し、武器や飛行機の細部まで具現化しようとする、錬金術師のようだ。
貪欲な探究心、有り余るアイディア、彼はアーティストでは納まりきらなかった。
なにかを成すには短い人の一生。
レオナルドのほとばしる思考が結晶化しているこの素描を、こよなく愛する。

”モナ・リザ”や”聖アンナと聖母子”もすばらしいが、レオナルドの素描には、宇宙の広がりを感じられる。
一見地味ではあるけれど、彼の素描に今一度深い関心を持ってみよう。


植物画


武器


三つ葉をもらう

2013-01-08 10:23:41 | 食べ物たち
昨日、知人から三つ葉の大束をもらった。
両手指をあわせて輪を作ったほどの束。
多分、出荷基準外の三つ葉なのだが、鮮度は抜群だ。
若々しい黄緑がかって、パリッとした葉っぱに、白くしゃっきとした茎、香りも高く美味しそう。
お味噌汁に卵で三つ葉をとじた澄まし汁、三つ葉の卵とじに三つ葉のかき揚げ、三つ葉が主役の料理たち。
さてさて、どうして食べようか。

三つ葉の前には、違う知人から芹の大束をもらい、これは全て味噌汁にして食べきった。
油揚げと芹だけの、シンプルで贅沢な味噌汁。
食べる直前にパラリと七味唐辛子をふれば、彩と香りがさらに引き立つ。
季節の頂き物に、心から感謝しながら食べる幸せだ。

各土地には、それぞれの特産物がある。
自分では作っていないけれど、知人の好意で分けてもらい、その恩恵にあずかっている。
なんとありがたいことか。
芹も三つ葉も、産地以外ではこうもふんだんに食べることはできない。
時折もらう特産物に、自分の住んでいる土地の恵みを取り込んでいる実感を持つ。
地に根ざした生のあり方、これを忘れてしまってはいけないと、そう思うのであった。