手前に見えるものはその背後を隠す。何気なく見る光景において、その背後に焦点を当てるということはない。手前の印象が優先され、探索の目的がない限り印象は希薄である。
たとえばこの作品では、背後の光景は転倒している。絶対に有り得ない光景が背後に展開されていても《絶対に》という観念は疑念を払拭し、背後の光景の通常に見える部分の認識で曖昧なまま受け入れてしまう。
横に引かれた線条は、さらに背後を見え難くしている。
まず視覚に飛び込む二本の木(単に平面的な木らしき形に過ぎないが)によって、全体を見え難くしている。そしてこの木自体が、木の根を逆さにしたものに酷似していることに気づく。(二重の意味をもたせている)
それは(この絵を逆さに見よ)という誘因になり、実行すると、丘陵に立つ三本の樹木の景が見えてくる。
すると、この木の枝に見えた形は、雷のような衝撃的なものに変移する、木という物質が形態を伴わない光や心理的なものに質を変えてしまうのである。
横に引かれた幾多の帯線は地層をイメージさせ、年代(地球の歴史)を感じさせるが、単に空気の層の重なりにも見える。
全てが重層的な意味を孕み、隠しながら隠されるという現象を引き起こしている。作品全体が妖しく動き、視覚という絶対を揺るがせていると換言してもいいかもしれない。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
遠くでは鷹がそらを截つてゐるし
からまつの芽はネクタイピンにほしいくらゐだし
いま向ふの並樹をくらつと青く走つて行つたのは
(騎手はわらひ)赤銅の人馬の徽章だ
☆掩(覆い隠して)往(人が死ぬこと)の説(話)を我(わたくし)は考え、蔽(見えないように隠し)記している。
双(二つ)の講(話)を記す趣(考え)の釈(意味を明らかにする)。
導く腎(要)は、真(まこと)に輝く照(あまねく光が当たる=平等)である。
しかし、自分の気持ちを殺して出かけるんだ。それをさらに困難にするようなことはしてもらいたくなかったね。きょうは、ほんのちょっとの間だけ出かけて、ある大事な使いの要件をもうとっくにもってきてくれていなくてはならないはずのバルナバスが帰ってきたかどうかをたずねてみようとおもったのだ。
☆しかしながら、気持ちを押して出かけなくてはならない。さらに困難になるようなことは避けなくてはならない。現今では、先祖が瞬間的に彼方(冥府)へ行くことを考え、問い合わせている。バルナバスは先祖の重要な報せをすでにとっくに持ってきてくれていなくてはならないが、ついに来たか、ということを思案している。