七十過ぎまで生きているとは思わなかった。
眠る間もなく忙しかった日々、ぐしゃぐしゃの紙屑状態…これから先の展望なんてありはしない…そう悲観し諦めていた。
まさかの余禄。
ブログで自分の感想を発信できる日が来るなんて想像だにしていなかった。
足腰弱り、目も定かでない。記憶も瞬時忘却の彼方。
それでも何とか生きている。
暇そうに見えるお婆さん・・・これでもね、結構忙しいんだよ。
印象
ラリツクスの青いのは
木の新鮮と神経の性質と両方からくる
そのとき展望車の藍いろの紳士は
X型のかけがねのついた帯革をしめ
すきとほつてまつすぐにたち
病気のやうな顔をして
ひかりの山を見てゐたのだ
☆章(文章)は黙っているが、真(まこと)を詮(明らかにする)芯(中心)の計(はかりごと)がある。
照(あまねく光が当たる=平等)は死地の霊(死者の魂)の法(神仏の教え)である。
転(ひっくり返る)謀(はかりごと)は、赦(罪や過ちを許すこと)であり、乱れを審(正しいかどうかを明らかにする)詞(言葉)を計(はかる)他意を書く。
平(平等)が基(物事のもと)であり、眼(要)は太陽が源(物事の生ずる元)である。
定着を描いていない。浮遊状態、流動の認識である。
在る、が固定(不変)であるか否かは断定できず、流れの一端《現象》にすぎない。
わたし達が永遠と信じて(あるいはそう信じたい)いる世界をずっと引いてみる。宇宙的視野を基点としたらこの現世(人間世界=地球)は、どう映るのだろうか。
記号のようなうごめき、確かに存在は認められる。
あの辺りには水というものがあって、どうやら生命体が出現しているらしい。輝きを持った連鎖は、確信と分裂に揺れている。平和と不穏(戦争)…絶滅・最後の日はあるだろうか。
今はただ、『出現』の祭りに騒がしいが、遠隔の宇宙から見れば、単なる現象にすぎない。
しかし『出現』は奇跡であり、わたし達はその最中に生きている。
写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
遠くの縮れた雲にかかるのでは
みづみづした鶯いろの弱いのもある……
あんまりひばりが啼きすぎる
(育馬部と本部とのあひだでさへ
ひばりやなんか一ダースできかない)
☆掩(おおわれた)宿(前世)からの運(巡り合わせ)がある。
奥(おく深いところ)の二役の他意は、幾(いくつか)の眼(良し悪しを見分ける)で部(区分けする)。
翻(形を変えて移し)捕らえる。
きみがあの一家のことを口にするのをいやがるのとほとんどおなじくらいに、ぼくは、助手どものことを口に出すのがいまいましいんだがね。まあ、きみと助手どもとの関係をぼくとあの一家との関係とくらべてみたまえ。
☆きみがあの一族のことを警告するのと同じくらい助手どものことを警告するのが不快なんだ。きみとあの一族との関係はどういう事情なんだ。