こいつはもう
あんまり明るい高級の霧です
白樺も芽をふき
からすむぎも
農舎の屋根も
馬もなにもかも
光すぎてまぶしくて
(よくおわかりのことでせうが
日射しのなかの青と金
落葉松は
たしかにとどまつに似て居ります)
まぶし過ぎて
空気さへすこし痛いくらゐです
☆冥(死後の世界)の講(話)である。
究める謀(はかりごと)を吐く。
過(あやまち)に我(わたくし)は悩む。
赦(罪や過ちを許す)を憶(思う)魂(精神)の場の講(話)である。
科(とが)の赦(罪や過ちを許す)償(つぐない)の魂に烙(焼き金を当てる)のは陽(日の光)の照(あまねく光が当たる=平等)である。
字に拠り和(争いを治める)空(根拠がない)記は二つある。
『恋人たち』
頬を寄せ合う男女…恋人でなく恋人たちとタイトルしている。恋人たちはおよそこのようなものだということだろうか。
二人の顔は白い布で被われている。お互いの表情は見えない、知らない状況を暗示している。
顔(頭部)には多くの情報が潜んでいるが、知らぬ同士であり秘密を抱えた二人が、何らかのきっかけで体を寄せる関係になっている、即ち恋人と称する状態である。
デュシャンの《花嫁》もそうであったが、この《恋人たち》というものも、仮の状態であって、確信めく実体というものは無いのである。
《関係性》
背景の山は緑色ではあるが勾配のある斜面、微妙に普通ではない急降下(不穏)を暗示している。
その向こうの海に至っては、二人の顔によって遮られているが、水平ではなく左へ傾いている。
高い山に立ち、静かに愛を育む恋人。しかしどこかに破調の空気がないともいえない。
《愛》に対する不信である。
超えて行くほどの覚悟はあるか。
世界で一番というほどの高揚は、狭い室内の領域くらいの世界かもしれない。
『恋人たち』はマグリットの洞察である。
写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
そのキルギス式の逞しい耕地の線が
ぐらぐらの雲にうかぶこちら
☆私記の体(ありさま)の考えは二つを宣(述べ)、運(廻らせている)。
ぼくは、あの一家にたいするきみの嫌悪がよくわかるし、自分でもおなじ思いがしている。ぼくがあそこへ行くのは、用事のためにすぎないんだ。利用するばかりで、かえって迷惑をかけているのじゃないかという気がときどきするくらいだよ。
☆わたしは、あの一族にたいする嫌悪が理解できるし、その思いを共有している。わたしが、あそこへ行くのは事件のためで、利用し尽すのは間違っているかもしれないと、時々感じている。