作品を上下ひっくり返してみると、確かに田園らしき風景が現れる。のどかに続く丘陵、けれど遠景は闇である。
しかし、樹木の影は左に長く伸びており、相当に低い光源であることが分かる、つまり夕刻・残照のような感じである。にもかかわらず、葉の茂りには右上からの光が当たっている。
存在は光と陰で証明されるが、それぞれのパーツ・領域が矛盾している。
重ねて言えば、すべてが切れ切れに矛盾を織り込んでいるとさえ言える。
《木の形に切り込まれた手前の二本の木の枝(木の根)》と《田園らしき風景/三本の木》の間にのみ横に延びた線条がある。(湾曲している部分もある)
この意味は何か・・・時間の隔たりではないか。
木の枝に見える切込みは地球創世以前の具現化であり、幾多の横線は幾多の衝撃に因る地層の重なり(億年の膨大な時間)であり、その背後に現在の『田園』たる環境がある。そしてその向こう(未来)は見えない。
『田園』とは今在る世界が、宇宙時間のなかの夢の途中だというつぶやきである。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
さつき光沢消しの立派な馬車は
いまごろどこかで忘れたやうにとまつてようし
五月の黒いオーヴアコートも
どの建物かにまがつて行つた
☆講(はなし)に託した照(あまねく光が当たる=平等)を流(世間に広め)把(手につかむ)。
魔(人を惑わし害を与える鬼)の赦(罪や過ちを許す)謀(はかりごと)であり、語(言葉)を合わせて告げると、見(現れる)仏の講(話)である。
彼にあとから学校へきてもらうという方法をとろうとしなkっtのは、彼がいることできみに不愉快な思いをさせたくなかったからだ。何時間かすぎても、残念ながら、バルナバスは帰ってこなかった。
☆後で責任を取ることを止めたのは、きみが留まることで煩わせたくなかったから。猶予が過ぎても彼は悲しいことに来ることはなかった。