本来あるべき位置を外しておかれたコート掛け、どこにおいても機能を発揮するというものではない。
設置は生活上の利便性にあり、垂直な面(壁)、人の手の届く高さ、水平という条件を満たした位置に設えるべきである。
床に固定されたコート掛けは潤滑なる生活習慣の否定である。
このコート掛けの前で立ち止まり思いを巡らせるが、《NO》という結論しか出ず、然るべき場所に移動させようとしても頑として動かない仕掛けになっている。
コート掛けという製品(レディ・メイド)、誰もがその用途は壁に掛けられるものだと知っている。その概念を打ち破った行為・・・しかし、まさか鑑賞者が壁に対して垂直に立っているとは考えない。想像は可能だが、床面に水平に浮いている状況は絶対に(重力下において)ないからである。
人には生活があり、その媒体が至る所にある。媒体の中で暮らしていると言ってもいいほどで、その関係は密である。
しかし、そこには、人間優位の原則(約束)がある。たとえ、コート掛けという小さな道具であっても、必然性があって存在、生み出されるからである。
人は時空との関係性の中で生き、固有の空間を形作って生活している。不用意な偶然の排除は必然である。
偶然を装い用意された適所に非ざる物へのメッセージ、『コート掛け』という作品は《無為以前の闇》の提示である。
写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク(www.taschenより)
「えいこんなばかなことをしてゐたらおれは鳥になってしまふんぢゃないか。」とゴーシュはいきなりぴたりとセロをやめました。
するとくゎくこうはどしんと頭を叩かれたやうにふらふらっとしてそれからまたさっきのやうに
「かっこうかっこうかっこうかっかっかっかっかっ」と云ってやめました。それから恨めしさうにゴーシュを見て
「なぜやめたんですか。ぼくらならどんな意気地ないやつでものどから血が出るまでは叫ぶんですよ。」と云ひました。
☆重ねて等(平等)の講(話)を運(めぐらせている)。
魂(精神)現わす異(普通とは違った)記である。
字に結びつくものを推しはかり教(神仏のおしえ)を運(めぐらせている)。
絶望的だと言うのは、全く無防備だからです。ここにこうしてすわって、相手の陳情を待っている。そしてその陳情がいったん述べられると、こちらはかなえてやらずにはおれないことがわかっている。
☆絶望的だというのは無防備だからです。ここにいて相手の要求を待っているならば、先祖の傷痕が明らかになることは好都合です。