続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

🈞デュシャン『折れた腕の前に』②

2019-07-03 06:40:17 | 美術ノート

 なぜ他でもない《雪かきシャベル》だったのか、それも《折れた腕の前に》。
 雪かきシャベルである必然性は、片腕のみならず両腕を必要としなければそれを使用することができないからであり、さらに言えば、全身を使わなければ雪かきシャベルの使用は果たせない。
 つまり、使用目的(エネルギーの燃焼)には雪かきシャベルを支点とし人間の全身運動が必要だからだと思う。

 しかし、その欠損(折れた腕)の前にある雪かきシャベルは、折れた腕の前では存在理由を失ってしまう。
 意味のある物が意味のない物に転移する。雪かきシャベルは雪かきシャベルであり続けるにもかかわらず、折れた腕の前では不要なものになってしまう。

 問題は物の見え方であり、物との関係である。
 物(道具)は人間にとって有効であるべく作られている。にもかかわらずその人間の側に不備が生じた場合、物(道具)は単なる《物》以外の何物でもなくなってしまう。  他方に働きかける媒介の術は意味を失くすのである。 

『折れた腕の前に』というタイトルを読み、同時に雪かきシャベルを目の前に見る鑑賞者は、「要らないだろう」と雪かきシャベルを排除する眼差しを隠せない。
 人間が物の前で優位に立つ理不尽、わたし達はそれを当然だと受入れているが・・・。


 写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク(www.taschenより)


『セロ弾きのゴーシュ』52.

2019-07-03 06:33:01 | 宮沢賢治

「ではお日さまの出るまでどうぞ。もう一ぺん。ちょっとですから。」くゎくこうはまた頭を下げました。
「黙れっ。いゝ気になってつて。このばか鳥め。出て行かんとむしって朝飯に食ってしまふぞ。」ゴーシュはどんと床をふみました。


☆化(教え導くこと)を推しはかる。逸(隠れた)等(平等)の化(教え導くこと)が目(ねらい)の記を調べて推しはかる講(話)である。
 帖(書き物)の半(二つに分けた一方)の自記は照(あまねく光が当たる=平等)である。


『城』3216。

2019-07-03 06:26:33 | カフカ覚書

なぜかと言いますと、ほかのことはすべてさしおくとしても、これは常識はずれな小心をいまその場で自分自身のためにがむしゃらに要求するのも同然だからですよ。


☆他のことはすべて分かっています。だから先祖はすべてを考えたうえで、この場で力づくの要求をしたのです。