木製の板台を見ると、COPYRIGHT ROSE SELAVY とある。
著作権はローズ・セラヴィにある、つまりデュシャンの意図であるがローズ・セラヴィの意思表示(作為)ということであり、ここにわたくし(デュシャン)はいない。
『フレッシュ・ウィドウ』新生未亡人。未亡人に付きまとう陰はなく、誇らしげというかhappyな空気さえ感じる。
『フレッシュ・ウィドウ』は、宣誓である。
「いま、わたくしは男を滅し、女を誕生させました」、わたしの中の男に別れを告げ女に変身したという宣告である。
古い慣習、観念に強制された男と女。当然至極だと甘受している性への新しい告発。
「あんたは女だろうと思っているけど、本当は男なんだよ」などという他者からの押し付けではなく《自身の目覚め》である。
《神への畏れ》という観点に突き当たるかもしれないが、それは単に神でない側の人間の思い込みにすぎない。永久の神は《性の自由・解放》に気づいたことを祝福されるかもしれない。本来自由であるべきはずの男女の壁は堅固にも、暗黙の約束事項になっていた傾向がある。
gender-free、社会的性別から自由になること、自分の生き方を自分で決める自己決定のできる社会。
性における通念から自由に解放されることを、デュシャンは『フレッシュ・ウィドウ』に於いて提言したのである。
写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク(www.taschen.com)より