『埃の栽培』
デュシャンの要望に応じて埃が詰まった状態のままでマン・レイが撮影。
埃の栽培・・・空中に浮遊する微塵が床などの降り積もっていく状態であり、時間の経過、切り取られた時間における様相である。ここに人の意志は認められず、栽培する主体は自然現象の一環にすぎない。
埃を顕微鏡で拡大して見ると決して一様の粒子などではなく沢山の形、色の集合体、混色があるが、隙間があるため並べて灰色に見えるという。
つまり、肉眼で見る景色とより精密に見る景色には相違があり、現象には写しきれない内実があるということである
空中に浮遊する見えない微塵を《在る》とは肯定できない。しかし時の経過で降り積もった埃という集合体になると《在る》ことを否定できない。
存在の希薄さは数多の集合によって存在を明らかにする。
《誰が?》という問いは愚問である。どんなに小さく軽い物も物体であれば必ず落下し果てる。あらゆるものは自然の理の中で存在しており例外はない。
埃は見えない時間に具体性を与え、見えないものを認識させるチャンスを与える。
時空を結びつけると換言してもいいかもしれない。
秘かな時の経過・・・ここに人間の定めた時間という基準は存在せず、その生産性においても自由を認めないわけにはいかない。
写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク(www.taschen.com)より
「何を習へと云ったんだ。おれはいそがしいんぢゃないか。それに睡いんだよ。」
狸の子は俄に勢がついたやうに一足前へ出ました。
☆化(形、性質を変えて別のものになる)で修(整え)薀(奥義)を推しはかる。
理(筋道)の詞(言葉)を臥(ふせ)、逝(死にゆく人)を逸(隠す)則(決まり)が全てである。
「おりますよ」と、ビュルゲルは答えて、足をKの手から引っこぬくなり、しょうねんのような荒っぽい気ままさでいきなり寝そべってしまった。
☆ビュルゲルはKの立場を解放し、突然荒々しく故意に先祖の氏族の男を打ちのめした。