『泉』
レディ・メイド:陶器製の小便器
恥部…恥ずべきところは隠蔽する、衆人の目に曝さないことが礼儀であり、自身の品格でもある。しかし、便器を使用するしないに関わらず、排泄は全ての人の行為であるが、『泉』という作品提示に違和感を感じるのは当然である。
新品であり汚れのない状態であっても口に触れるなど論外である。最も必要でありながら親しく愛でることのない対象物、それが便器かもしれない。
脳裏に刻まれた排泄という秘かな営為、決して露わにしてはならない暗黙の約束。
それをまざまざと思い起こさせる『泉』。
デュシャンにとって、『泉』への反感、嫌悪こそが目的だったのではないか。その軋轢、いざこざ、摩擦によって『泉』(便器)とは何かを提議する。
光と影、物の表裏。存在を確実に知り過ぎるほど知っているが、衆目の話題にはふさわしくない便器の存在。
しかし『泉』(便器)の需要こそ《生きている証=生存証明》であり、不要になることは《死》を意味する。
『泉』は現代アートにおいて、意識を目覚めさせた事件である。
写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク(www.taschen.com)より
そのがらんとなった窓のあとをくゎくこうが矢のやうに外へ飛びだしました。そしてもうどこまでもまっすぐに飛んで行ってたうとう見えなくなってしまひました。ゴーシュはしばらく呆れたやうに外を見てゐましたが、そのまゝ倒れるやうに室のすみへころがって睡ってしまひました。
☆双(二つ)也。
我意である秘(人に見せないように隠している)の飛(架空)の講(話)が現れる。
謀(企て)である我意を兼ねた等(平等)の質(内容)を推しはかる。
こういう相手を見すてておくことができるものでしょうかね。そんなことはできません。幸福な人間に特有な饒舌ぶりを発揮して、相手になにもかも説明してやらずにはおれないのです。
☆そのままにしておくことができるでしょうか、出来ません。幸福な饒舌はすべて(死)の説明を必要としない。