続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『城』3232。

2019-07-25 07:21:26 | カフカ覚書

「エルランガーですよ」と、ビュルゲルは、ささやくような声で言ったが、エルランガーがとなりの部屋にいるということにおどろいた様子もなかった。「すぐに行ってあげなさい。きっとむくれていますから、なだめてやることですな。」


☆「エルランガーです」と、ビュルゲルは囁いた。エルランガーはそのテーマに驚いたようには見えなかった。「すぐに行き、彼の怒りをなだめてください」

 


🈞デュシャン『埃の栽培』②

2019-07-25 06:44:19 | 美術ノート

 埃の栽培…この写真は結果であるが過程である。
 雨風によって自ずと景色は変わり、このまま留まる術もない。
 あるがままであり、人工的な力を加えた形跡はないように見えるが、この先(未来)については予測不可能である。

 埃は砂塵とは異なり人為的な要素が強い。生産消費の過程に排出され舞い上がり舞い落ちた日常の影(垢)である。
 細菌が潜んでいるであろう埃に人間界で言う罪はないが、不潔であるという判断により消去の憂き目は想像に難くない。

 埃は自然現象であるが、基をただせば人間(動物)の活動に因するのではないか。
 とすれば、『埃の栽培』というタイトルは当たっているかもしれない。つまり、意図のない意識下であっても人の生活が育てたものである。

《埃は栽培されたのだ、誇りを栽培しているのだ》という自覚を持つ人には滅多に会えないが、『埃の栽培』は、その眼差しがあることの証明写真である。


 写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク(www.taschen.com)より


『セロ弾きのゴーシュ』66.

2019-07-25 06:33:18 | 宮沢賢治

「ぼくは小太鼓の係りでねぇ。セロへ合わせてもらって来いと云はれたんだ。」
「どこにも小太鼓がないぢゃないか。」
「そら、これ」狸の子はせなかから棒きれを二本出しました。


☆章(文章)の他意を個(一つ一つ)の糸(つながり)で合わせることに頼り、運(めぐらせている)。
 照(あまねく光が当たる=平等)を諦(明らかにする)。
 照(あまねく光が当たる=平等)は諦(真理)である故に理(物事の筋道)の旨(考え)である。
 謀(はかりごと)は字で翻(形を変えてうつし/作り変えて)推しはかる。


『城』3231。

2019-07-25 06:24:36 | カフカ覚書

「それでは、そろそろこちらへよこしてもらいたいものですね」という声がかえってきた。それは、ビュルゲルのことも、彼がまだKを必要とするかもしれないということもまるで眼中にないような口ぶりであった。


☆究極こちらへ来るべきである、と再び声がした。ビュルゲルがまだKを必要とするかもしれないことにも少しも配慮がなかった。