続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

若林奮『1-2-4』港に対する攻撃Ⅱ④

2019-09-27 06:52:29 | 美術ノート

 港に対する攻撃・・・港が(  )によって攻撃され、ということである。
(  )には何が入るだろう。
 地球全体は十数枚のプレートの動き(移動)によって、変形を余儀なくされている。
 わたし達は、断層への攻撃の不安に常におびえている。境界の質の差異(硬軟)によるずれの現象は痕跡が残るので目で確認できる場合もあるが、後の話である。

 港(境界)が不測の事態を常に抱えているということは、地球の歴史であり、地球が生きていることの証明でもある。

《大いなる振動》
 港に対する攻撃は地球全体が常に危惧せざるをえない問題である。
 人類の発達、自然への思いあがった侵略は共存というより攻撃に転じることが有るかもしれず、自然も港に対する攻撃の手を超然として緩めることはないかもしれない。

 この未来への予測と恐怖の重さが『港に対する攻撃』だと思う。


 写真は『若林奮 飛葉と振動』展・図録より 神奈川県立近代美術館


『忘れえぬ人々』2.

2019-09-27 06:24:55 | 国木田独歩

ちょうど三月の初めの頃であった。この日は大空かき曇り北風強く吹いて、さなきだに淋しいこの町が一段と物淋しい陰鬱な寒むそうな光景を呈していた。


☆散(自由気まま)に合わせる諸(もろもろ)の景(ようす)である。
 何(いずれ)の他意も空(何もない)。
 呑(取り込む)目(ねらい)は、訃(死去の通知)の業(身、口、意による善悪すべての行為、またそれが将来及ぼす影響、前世の悪行の報い)を推しはかる。
 臨(その場やその時に合わせる)眺(ながめ)が逸(隠れている)談(話)である。
 仏の倫(すじみち)を允(聞き届け)打つことが肝(かなめ)の講(話)を計(はかる)定(きまり)である。


『城』3271。

2019-09-27 06:14:18 | カフカ覚書

ことによると、書類がいつまでもつんだままにしてあると、あとでほかの連中に分配されるというようなこともあるのであろうか。それで、いまからしきりに様子をのぞいては、書類がまだドアの前にあるかどうか、したがって、まだ自分にも希望があるかどうかを、確かめようというわけなのだろう。


☆もしかすると、死に向けられている書類がさらに遅れ、取り除かないでいると他の連中に分配されるというようなこともあるのだろうか。
 今から調べたとしても納得できるだろうか。
 文書は常に入口にあり常に希望は手元にあるのだけれど。