続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)晴天の。

2022-03-03 07:30:31 | 飯島晴子

   晴天のどもりのために折るすゝき

※晴れた日、よそから土を運んできて高く盛り上げる作業のために、すゝきは折られてしまった。

 晴天のどもり(晴天土盛)はセイ・テン・ド・ジョウと読んで、精、添、努、情。
 ために折るすゝき(為折芒)はイ・セツ・ボウと読んで、医、説、望。
☆精(くわしく)添(付け加えた)努(力を尽くす)情(思いやり)の説(相手を納得させる話)を望む。

 晴天のどもり(晴天土盛)はセイ・テン・ド・セイと読んで、盛、店、努、凄。
 ために折るすゝき(為折芒)はイ・セツ・ボウと読んで、偉、切、忙。
☆盛(栄える)店は努(はげむ)凄(すごさ)が偉(並外れている)。
 切(ひたすら)忙しい。

 晴天のどもり(晴天土盛)はセイ・テン・ト・セイと読んで、成、恬、徒、制。
 ために折るすゝく(為折芒)はイ・セツ・ボウと読んで、意、拙、乏。
☆成(出来上がり)が恬(さっぱりしている)。
 徒(むだな)制(作り)である。
 意(内容)は拙(つたなく)乏しい。


吉川宏志(私的解釈)風を浴び。②

2022-03-03 06:33:43 | 吉川宏志

 風を浴びきりきり舞いの曼珠沙華抱きたさはときに逢いたさを超ゆ

 風を浴びきりきり舞いはフ・ヨク・マイと読んで、経、沃、米。
 曼珠沙華はマン・ジュ・サ・カと読んで、万、受、査、香。
 抱きたさはときに逢いたさを超ゆ(抱・時・逢・越)はホウ・ジ・ホウ・エツと読んで、芳、持、飽、悦。
☆経(時間の過ぎた)沃(地味がよい)米を万(たくさん)受(うけとった)。
 査(調べると)香りは芳しさを持(所有しており)飽(十分)悦(うれしく思った)。

 風を浴びきりきり舞いはフ・ヨク・マイと読んで、富、欲、my。
 曼珠沙華はマン・ジュ・サ・カと読んで、満、需、些、貨。
 抱きたさはときに逢いたさを超ゆ(抱・時・逢・越)はホウ・ジ・ホウ・エツと読んで、奉、辞、悦。
☆富への欲、my(わたし)を満たす需(必要)は些(わずか)である。
 貨(お金)を奉(承ること)を辞(断る)。
 放つことを悦(喜ぶ)。

 風を浴びきりきり舞いはフ・ヨク・マイと読んで、訃、浴、毎。
 曼珠沙華はマン・ジュ・サ・カと読んで、漫、呪、嗟、苛。
 抱きたさはときに逢いたさを超ゆ(抱・時・逢・越)はホウ・ジ・ホウ・エツと読んで、法、自、奉、咽。
☆訃(死去の報せ)を浴(身に受ける)。
 毎(その度に)漫(何とはなしに)呪う、嗟(嘆き)は苛(厳しくむごい)。
 法(法事)では自(わたくし)は奉(礼を尽くして)咽(むせび泣く)。


M『幕の宮殿』

2022-03-03 05:59:52 | 美術ノート

   『幕の宮殿』

 宮殿の幕なら分かる、しかし、幕の宮殿である。幕=宮殿ということだろうか。
 変形のパネルが六枚それぞれ孤立しているのか連結しているのかは不明だが、重なりつつも並列の態である。幕というものは一枚の布であり何かを被うものである。

 この場合、何を被っているのだろう、被いきれない室内の壁が露呈しており、壁も床もほぼ同色である。
 殿というものは大きな建物を指し、皇帝の御殿である。(あるいは神殿)
 建屋の一室に収まる凸凹のパネル一連が宮殿なのだろうか。殿は空間であり平面ではないが、あえてそう名付けているのだろうか。

 馬の鈴(伝説、口伝etc)、雲を浮かべた青空、緑の林・・・その三枚の前後に黒いパネル。いずれも時空を推しはかれないほどの巨きさを所有する、無限、果てないほどの地上を被うものである。黒い画面が夜であるならば、各三枚は昼である。
 見えるものと見えないもの。
 縮小された画面の持つ無限の広がりを持つ世界。
 被われたものは被うものをはるかに超越するという視覚の誤読。

 この差異の変遷、ひどく居心地の悪い不可解。これが幕の宮殿であり、決して宮殿の幕ではあり得ないものである。

 写真は『マグリット』展・図録より