にぎやかに遊んでいた近所の子供たちはわが子も含めて皆社会人であり、働き盛りである。
と同時に、親が高齢になっているという事実がある。
A君は疾患のある親に苦慮し、施設をお願いしているけれど頑として舞い戻ってきてしまう母親を遠方の居住地から度々足を運んできている。
「お母さんはよくあなたの野球を見にいったものね、県内どこまでも」と言ったら、
『「お前の母さん、また来てるぞ」って冷やかされたもんです』と笑った。
「だってね、僕、ずっとベンチ入りで試合には出てなかったのにです。」
・・・ええっ!三十年以上も立って知らされた内実。
親の愛情の深さ・・・。知的障害のある母親にそそぐ息子の信念ある真情、表情は複雑である。
『微笑』
ANNO1957、この絵を描いたのは1951年とあるから、少し先の未来、現在と言っていいかもしれない。274はかなり昔(以前)であり、さらに30861は途方もなく遠い未来である。
この石碑は相当に古い態を醸している、破損した欠片である。途方もなく遠い未来を越え、さらに途方もない時間を経た任意の時空である。
不可逆である時間の想定、動かしがたい時間の概念。この事実を俯瞰して微笑している時空間が果たして存在しうるのだろうか。
時間という概念は消失しうるだろうか。単に人間が妄想し作り上げた尺度に過ぎないものでしかないのか。
私たちが『絶対に信じていること』は妄想に過ぎないのだろうか。
太陽の巡り、核心は確信として存在し続けることは盤石ではなく、わたし達が信じている《絶対》は『微笑』に等しい軽さをもって見分される日がくるのかもしれない。
写真は『マグリット』展・図録より
紅梅のなかに入つてゆく眼光
※なか(中)はチュウと読んで、宙。
眼光はガンコウと読んで、雁行。
紅梅の彼方の宙(大空)に雁が飛んで行く景色である。
紅梅のなかに(紅梅中)はコウ・バイ・チュウと読んで、交、媒、知友。
入つてゆく眼光(入行眼光)はジュ・コウ・ガン・コウと読んで、需、乞う、眼、幸。
☆交(つきあい)の媒(なかだち)は知友の需(求め)である。
乞う(望む)眼(かなめ)は幸(幸福)である。
紅梅のなかに(紅梅中)はコウ・バイ・チュウと読んで、交、倍、注。
入つてゆく眼光(入行眼光)はニュー・コウ・アン・コウと読んで、新、講、眼、公平。
☆交ぜて倍(多くし)注(書き記す)。
新しい講(話)の眼(かなめ)は公(一部に偏らない)。
紅梅のなかに(紅梅中)はコウ・バイ・チュウと読んで、厚、売、衷。
入つてゆく眼光(入行眼光)はジュ・ギョウ・ゲン・コウと読んで、需、凝、厳、向。
☆厚(てあつい)売(あきない)は忠(まごころ)が需(必要)である。
凝(神経を集中し)厳しく向(立ち向かうこと)である。
ゆらゆらと雪の入りゆく足もとの闇をまたぎて電車に乗りぬ
※なにか異世界へでも運ばれるような幻想を抱かせる。
雪の入りゆく(雪入行)はセツ・ニュー・コウと読んで、説、新、考。
足もとの闇(足元闇)はソク・ゲン・アンと読んで、即、幻、暗。
またぎて電車に乗りぬ(跨電車乗)はコ・デン・シャ・ジョウと読んで、個、伝、者、情。
☆説(話)は新しい考え、即ち幻であり、暗(人に知られない)個(一つ一つ)を伝伝える者(わたくし)の情(個人的な感情)である。
雪の入りゆく(雪入行)はセツ・ニュー・アンと読んで、切、新、案。
足もとの闇(足元闇)はソク・ゲン・アンと読んで、促、厳、庵。
またぎて電車に乗りぬ(跨電車乗)はコ・デン・シャ・ジョウと読んで、古、殿、斜、状。
☆切(すべて)新しくする案(計画)を促(せきたてる)のは厳(容赦がない)。
庵の古い殿(建物)は斜めの状(ありさま)である。
雪の入りゆく(雪入行)はセツ・ジュ・ギョウと読んで、窃、受、業。
足もとの闇(足元闇)はソク・ゲン・アンと読んで、惻、厳、闇。
またぎて電車に乗りぬ(跨電車乗)はコ・デン・シャ・ジョウと読んで、己、伝、遮、情。
☆窃(秘かに)受ける業(報いを受ける元となる善悪の行い)を惻(心を痛める)厳しさ)、闇(ひそかに)己(わたくし)は伝(言い伝え)を遮る情(心、意地)がある。