『接近する金属の中に水車のある独身者の器具』
接近する金属?金属が接近するとは考えにくい。重力で落下あるいは何かの力で飛んでくることはあるかもしれないが、金属の比重を考えると接近という動きはなく、外部の力なしに金属自体が移動することはあり得ない。
金属の中に水車?この光景を文字だけでは想像できないし、金属の中に水車がある必然性も無く、水車の有効性を外している。
(接近する金属の中に水車のある)=(独身者の器具)
独身者とは結婚していない人(男女)のことならば、子供も入るし離婚者もいる。その境界線は引けない。
ほとんど意味不明である。意味を離散させることで《空無》を浮上させている。意味を捉えようとすれば、意味の方が逃げていくという不思議な現象をもったタイトルであり、魅惑的な詩のセンスを感じる。
さて作品を見ると147×79㎝、半円形ガラス板が鉛の枠に収まり、中に油彩と鉛線を使った工作物が描かれている。
ガラス板(透明)の中に立体に見える工作物が浮上しているように見える。
着地(安定)は不可である、おそらく水車らしき車輪だけでは床に置いた場合倒壊してしまう構造である。
一見、立方体の形態であり安定しているように見えるが、微妙に不安要素が隠れている。たとえば二つの車輪をつなぐ棒は支えられておらず、しかも中心からの左右のバランスを欠いている。手前の一番長い棒は後方の横棒につながっているようでもありエッシャーばりの錯視を多用している。
作画を現実に組み立てようと試みるならば制作不能は必至であり、倒壊を危惧するが、それ以前に不条理がある。
タイトルと作品の不一致、類似点・共通項は、金属(鉛)水車(車輪)と、あるには違いないが無為の産物である。これらが(独身者の器具)であるという断定の前で途方に暮れてしまう。呆然自失、意味不明、鑑賞者は作品の前で思索の迷路に入りこんでしまう。明確な答えの得られない(出口のない)混沌である。
ガラスには鑑賞者自身が映る、ガラスの向こうの自身に問いかけるが決して答えのない迷宮であることに気づくまでには時間がかかる。
近接する金属の不在・・・答えを見出そうとするとき、人はわたくし自身に立ち返る。そのための器具(機械)という無機的な媒介だったろうか。
写真は(www.tauschen.com)より