続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

🈞デュシャン『近接する金属の中に水車のある独身者の器具』

2019-05-20 06:47:42 | 美術ノート

   『接近する金属の中に水車のある独身者の器具』

 接近する金属?金属が接近するとは考えにくい。重力で落下あるいは何かの力で飛んでくることはあるかもしれないが、金属の比重を考えると接近という動きはなく、外部の力なしに金属自体が移動することはあり得ない。
 金属の中に水車?この光景を文字だけでは想像できないし、金属の中に水車がある必然性も無く、水車の有効性を外している。
(接近する金属の中に水車のある)=(独身者の器具)
 独身者とは結婚していない人(男女)のことならば、子供も入るし離婚者もいる。その境界線は引けない。
 ほとんど意味不明である。意味を離散させることで《空無》を浮上させている。意味を捉えようとすれば、意味の方が逃げていくという不思議な現象をもったタイトルであり、魅惑的な詩のセンスを感じる。

  さて作品を見ると147×79㎝、半円形ガラス板が鉛の枠に収まり、中に油彩と鉛線を使った工作物が描かれている。
 ガラス板(透明)の中に立体に見える工作物が浮上しているように見える。
 着地(安定)は不可である、おそらく水車らしき車輪だけでは床に置いた場合倒壊してしまう構造である。
 一見、立方体の形態であり安定しているように見えるが、微妙に不安要素が隠れている。たとえば二つの車輪をつなぐ棒は支えられておらず、しかも中心からの左右のバランスを欠いている。手前の一番長い棒は後方の横棒につながっているようでもありエッシャーばりの錯視を多用している。
 作画を現実に組み立てようと試みるならば制作不能は必至であり、倒壊を危惧するが、それ以前に不条理がある。

 タイトルと作品の不一致、類似点・共通項は、金属(鉛)水車(車輪)と、あるには違いないが無為の産物である。これらが(独身者の器具)であるという断定の前で途方に暮れてしまう。呆然自失、意味不明、鑑賞者は作品の前で思索の迷路に入りこんでしまう。明確な答えの得られない(出口のない)混沌である。
 
 ガラスには鑑賞者自身が映る、ガラスの向こうの自身に問いかけるが決して答えのない迷宮であることに気づくまでには時間がかかる。
 近接する金属の不在・・・答えを見出そうとするとき、人はわたくし自身に立ち返る。そのための器具(機械)という無機的な媒介だったろうか。


 写真は(www.tauschen.com)より


『城』3185。

2019-05-20 06:32:00 | カフカ覚書

と言いますのは、その秘書が弁護士の諸先生よりも法律の裏道をよく知っていて、なにほどかのことをしてやれるとしても、自分の管轄外のことにさくような時間がとてもないからです。そんなことに一瞬たりとも時間を浪費することはできないのです。


☆総てが弁護士の職権だとしてもその事柄は失敗するでしょう。そのために使う時間は皆無なのです。


🈞デュシャン『急速な裸体に囲まれた王と王女』③

2019-05-19 06:35:43 | 美術ノート

 総ては接合しているように見え、塊があり流れがある。
 そうだろうか、そう見えるに過ぎないのではないか。仮にそう見えたとして、では何か?と問われれば答えに窮する形態である。
 連続するような関連も孤立した主張もない。
 曲線の多用によってひどく立体的に見えるが、分散し継続のない集合は遠目で見ると平板である。近視眼的に部分を追うと複雑な組織は何かを正確に描き表しているように見える。
 何か?
 答えを見つけられないまま視点は中央の光の当たった部分で止まってしまう。

 画を逆さにしても、答えは同じである。
 大体、急速な裸体などというものはない。急速な、という形容は時間を要する表現であり、裸体(物体)という名詞にかかることはあり得ない。つまり意味を解放、意味の呪縛を解いている。

 王と王女の存在であるが、どこに表現されているのか不明である。これだと思う指摘があっても確実性はなく、あの部分でもこの部分でも想像を働かせるのは自由であり、タイトルの言葉に匹敵する画はあれでもこれでも選択の自由に任せられており、逆にあれでもこれでもないという選択も残される。

 王と王女という階層は開放されており、誰が王でも王女でも構わないという設定である。急速な裸体、急速はともかく裸体とは無産を暗示する。王も王女も無産も誰がどれだかわからない。
 ある種の部族(集合)はあっても、みんなそれぞれが偶然隣り合っているに過ぎない。デュシャンは権威からの解放を秘密裏に描いたのである。


 写真は(www.tauschen.com)より


🈞デュシャン『急速な裸体に囲まれた王と王女』②

2019-05-18 06:41:21 | 美術ノート

 この絵の中で、どれが急速な裸体なのか、王と王女はどこに?
 それらしいからと、勝手に創造し決めつけることは可能であるし自由である。
 しかし決定的な決め手、言葉と画像に関連性(共通項)は見いだせないのは、そのように意図しているからだと思う。

 ここに描かれている形に同一なものは一つもなく、どこか異なっているのは、何か具体的な対象を想起させないためで、それぞれが全て違っているが、よく見るとそれぞれがすべて独立している。
 もちろん急速な裸体と王と王女の判別など端から描いていない。
(誰が誰だかわからない)
 つまり、みんな違っているが、だれが王と王女(身分/偉い)などという判別はつかず、それぞれが個性的(大きいのも細いのも小さいのも曲がっているのも色の違うのも・・・)である。
 押し合いへし合いしているが、それぞれが自由で束縛を受けず、組織を作っていない。上も下もないのである。

『急速な裸体に囲まれた王と王女』は、王国の否定である。


 写真は(www.tauschen.com)より
 


🈞デュシャン『急速な裸体に囲まれた王と王女』

2019-05-17 06:55:08 | 美術ノート

   『急速な裸体に囲まれた王と王女』

 急速は時間の度合いを示す言葉だが、この画面から急速のイメージは感じられないし、第一、急速な裸体というものは存在しない。急速はイメージできるし、裸体も分かる。しかしこの二単語を結ぶことによって意味が霧消している。あり得ないものを言葉であり得るかに書くというセンスは無を描くのに似ているかもしれない。
 さらに〈王と王女〉に至ってはそれを現す記号めく納得のいく材料が皆無である。言葉だけが浮上し、画面からはその要因を見つけ出すことができない。つまり描いておらず、タイトルと内容は密接な関係を持つという鉄則(観念/常識)をまるで無視する暴挙によってこの作品は提示されている。

『急速な裸体に囲まれた王と王女』はこの絵の中に存在しない。にもかかわらず、そうタイトルしたことで鑑賞者は何とか共通類似点を探索する。当然描いていない物を探すのは徒労である。
 王と王女の意味はその世界にトップに君臨する人たちであるが、その具体性が絵の中には認められない。もちろん、そのように描いたのであって、ある意味縦社会の否定であり、反逆に等しい。

 急速な裸体は社会構造に憤る平民(大衆)を暗示しているのだろうという安易な読みが成立しないでもないが、むしろそれを壊している。
 画の細部を見ると関連(連結)が有りそうで無い、接続が希薄であり見かけだけの連結、仮想であり、組み立て不可能な羅列ともいうべき被写体、光景である。

『急速な裸体に囲まれた王と王女』は分解可能な任意の物の集合であり、急速な裸体も王と王女の存在も単に部分として溶解している、換言すれば、いないのである。
 社会構造の崩壊、無に帰した光景、時間を止めた混沌の原初が垣間見えてくる作品である。


 写真は(www.tauschen.com)より


『セロ弾きのゴーシュ』19.

2019-05-17 06:32:16 | 宮沢賢治

では今日は練習はこゝまで、休んで六時にはかっきりボックスへはいってくれ給へ。」
 みんなはおじぎをして、それからたばこをくはえてマッチをすったりどこかへ出て行ったりしました。ゴーシュはその粗末な箱みたいなセロをかゝ平行て壁の方へ向いて口をまげてぼろぼろ泪をこぼしましたが、気をとり直してじぶんだけたったひとりいまやったところをはじめからしづかにもいちど弾きはじめました。


☆教(神仏のおしえ)を化(形、性質を変えて別のものになる)で連(つなげ)、修(整える)。謀(はかりごと)の字は新しく求める。
 推しはかる講(話)であり、組(くみ合わせると)末(最後)には総てが闢(ひらける)法(神仏の教え)の考えの講(話)である。
 塁(次々に重ねた)記(書き留めたもの)は自記の談(話)である。


『城』3184。

2019-05-17 06:17:58 | カフカ覚書

自分の担当のところでははかばかしくいかないと思いこんで、担当でないところへ行ってなんとかうまくくぐり抜けようとしたばっかりに、せっかくの請願をふいにしてしまったような人もいますよ。さらに、こういう試みは、担当でない秘書が夜中に不意打ちをかけられながらも、親切に助けてやろうという気になったところで、管轄外である哀しさで並の弁護士以上のことはまずできないということによっても、失敗におわるにちがいありません。あるいは、結局は弁護士ほどのこともできないかもしれません。


☆関係者は権限で試みようとしてもかなりの数が失われているので、先祖の秘書たちの権限をもってしても死は不意を襲うでしょう。一時的に助けようとしてもできません。実際、介入する権限などないのです。


🈞デュシャン『階段を下りる裸体』②

2019-05-16 06:44:54 | 美術ノート

 連写を思わせる描写は何を意図したのだろう。
《時間と空間》の関係性を追求したのだと思う。つまり(今)とは何かである。

 今の今はすでに過去であり、未来はまたたくまに今になる。この空気感、得体の知れなさ、つかみどころのない時間の中の変化。時間を体感するのは人間の意識であり、外部とのズレである。
 時間軸というのは自身のなかに在る。ただそれが地球という領域にあって太陽との関係で認定された基準に従っているだけではないか。
 光と影には周期があり、それが繰り返されて帯状の線になる。人間の生死の連鎖はその時間帯に密接に絡みついて歴史という奇妙な物語を生じさせるが、元来時間は素/ありのままの人間の内部に生じる感覚だとも言える。

 時間は平行(直進)なものか、上昇あるいは下降するものなのか…誰にもわからない。
 デュシャンは、『階段を下りる裸体』において、真っ直ぐに下降していく図を描いて周囲の階段を螺旋状に、しかも機械的とも思える描き方をしている。

『階段を下りる裸体』は、時間の秘密に迫ったものではないか、と思う。


 写真は(www.tauschen.com)より


『セロ弾きのゴーシュ』18.

2019-05-16 06:31:35 | 宮沢賢治

光輝あるわが金星音楽団がきみ一人のために悪評をとるやうなことでは、みんなへもまったく気の毒だからな。


☆講(話)の祈(願い)の魂(精神)は、照(あまねく光が当たる=平等)である。
 隠した絡(つながり)の談(話)には溢(たくさん)の図りごとがあるが、話に現れる祈(願い)は独(ただ一つ)である。