続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『セロ弾きのゴーシュ』67.

2019-07-26 06:38:05 | 宮沢賢治

「それでどうするんだ。」
「ではね、『愉快な馬車屋』を弾いてください。」
「何だ愉快な馬車屋ってジャズか。」


☆諭(教え導く)介(仲立ちをする)場であり、赦(罪や過ちを許す)也。
 談(話)の何(形、性質を変えて別のものになる)は、諭(教え導く)介(仲立ちをする)場であり、赦(罪や過ちを許す)也。


『城』3232。

2019-07-25 07:21:26 | カフカ覚書

「エルランガーですよ」と、ビュルゲルは、ささやくような声で言ったが、エルランガーがとなりの部屋にいるということにおどろいた様子もなかった。「すぐに行ってあげなさい。きっとむくれていますから、なだめてやることですな。」


☆「エルランガーです」と、ビュルゲルは囁いた。エルランガーはそのテーマに驚いたようには見えなかった。「すぐに行き、彼の怒りをなだめてください」

 


🈞デュシャン『埃の栽培』②

2019-07-25 06:44:19 | 美術ノート

 埃の栽培…この写真は結果であるが過程である。
 雨風によって自ずと景色は変わり、このまま留まる術もない。
 あるがままであり、人工的な力を加えた形跡はないように見えるが、この先(未来)については予測不可能である。

 埃は砂塵とは異なり人為的な要素が強い。生産消費の過程に排出され舞い上がり舞い落ちた日常の影(垢)である。
 細菌が潜んでいるであろう埃に人間界で言う罪はないが、不潔であるという判断により消去の憂き目は想像に難くない。

 埃は自然現象であるが、基をただせば人間(動物)の活動に因するのではないか。
 とすれば、『埃の栽培』というタイトルは当たっているかもしれない。つまり、意図のない意識下であっても人の生活が育てたものである。

《埃は栽培されたのだ、誇りを栽培しているのだ》という自覚を持つ人には滅多に会えないが、『埃の栽培』は、その眼差しがあることの証明写真である。


 写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク(www.taschen.com)より


『セロ弾きのゴーシュ』66.

2019-07-25 06:33:18 | 宮沢賢治

「ぼくは小太鼓の係りでねぇ。セロへ合わせてもらって来いと云はれたんだ。」
「どこにも小太鼓がないぢゃないか。」
「そら、これ」狸の子はせなかから棒きれを二本出しました。


☆章(文章)の他意を個(一つ一つ)の糸(つながり)で合わせることに頼り、運(めぐらせている)。
 照(あまねく光が当たる=平等)を諦(明らかにする)。
 照(あまねく光が当たる=平等)は諦(真理)である故に理(物事の筋道)の旨(考え)である。
 謀(はかりごと)は字で翻(形を変えてうつし/作り変えて)推しはかる。


『城』3231。

2019-07-25 06:24:36 | カフカ覚書

「それでは、そろそろこちらへよこしてもらいたいものですね」という声がかえってきた。それは、ビュルゲルのことも、彼がまだKを必要とするかもしれないということもまるで眼中にないような口ぶりであった。


☆究極こちらへ来るべきである、と再び声がした。ビュルゲルがまだKを必要とするかもしれないことにも少しも配慮がなかった。


🈞デュシャン『埃の栽培』

2019-07-24 06:26:28 | 美術ノート

   『埃の栽培』
 デュシャンの要望に応じて埃が詰まった状態のままでマン・レイが撮影。

 埃の栽培・・・空中に浮遊する微塵が床などの降り積もっていく状態であり、時間の経過、切り取られた時間における様相である。ここに人の意志は認められず、栽培する主体は自然現象の一環にすぎない。

 埃を顕微鏡で拡大して見ると決して一様の粒子などではなく沢山の形、色の集合体、混色があるが、隙間があるため並べて灰色に見えるという。
 つまり、肉眼で見る景色とより精密に見る景色には相違があり、現象には写しきれない内実があるということである
 空中に浮遊する見えない微塵を《在る》とは肯定できない。しかし時の経過で降り積もった埃という集合体になると《在る》ことを否定できない。

 存在の希薄さは数多の集合によって存在を明らかにする。
《誰が?》という問いは愚問である。どんなに小さく軽い物も物体であれば必ず落下し果てる。あらゆるものは自然の理の中で存在しており例外はない。

 埃は見えない時間に具体性を与え、見えないものを認識させるチャンスを与える。
 時空を結びつけると換言してもいいかもしれない。

 秘かな時の経過・・・ここに人間の定めた時間という基準は存在せず、その生産性においても自由を認めないわけにはいかない。


 写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク(www.taschen.com)より


『セロ弾きのゴーシュ』65.

2019-07-24 06:14:06 | 宮沢賢治

「何を習へと云ったんだ。おれはいそがしいんぢゃないか。それに睡いんだよ。」
 狸の子は俄に勢がついたやうに一足前へ出ました。


☆化(形、性質を変えて別のものになる)で修(整え)薀(奥義)を推しはかる。
 理(筋道)の詞(言葉)を臥(ふせ)、逝(死にゆく人)を逸(隠す)則(決まり)が全てである。


🈞デュシャン『旅行者用折り畳み品』②

2019-07-23 06:58:13 | 美術ノート

 哀愁がある。
 淋しいほどに、哀しいほどに…愛しいほどに哀愁が漂う提示である。

 旅行者、並べて全ての人がこの世の旅行者である。それぞれ…千差万別の経由。
 タイプライター(言葉)で記録された歴史、そんなものはいずれ無に帰していくに違いない。46億年の歴史を持つ地球のほんの最近発生したと言われる人類の我が物顔・・・笑止、吹けば飛ぶような仮住まい。
 この世に生を受け、わずか100年ほどの旅・・・喜怒哀楽、愛憎の混沌の中、溢れるほどの思いを凝縮し、文字にしたところで何ほどのことがあるだろうか。

『折り畳み品』である、不要なのである。『旅行者用折り畳み品』に見る空漠、わたし達はその空漠を持参して旅をしているのかもしれない。
 旅行者たちそれぞれの経歴、誇らしい履歴も貧相な過去も億年(永遠)という時間の括りの中に霧消していく。

 旅行者は《記録》の概念から自由に解放されるべきである。


 写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク(www.taschen.com)より


『セロ弾きのゴーシュ』64.

2019-07-23 06:49:09 | 宮沢賢治

すると狸の子はまたふしぎさうに
「だってぼくのお父さんがね、ゴーシュさんはとてもいゝ人でこはくないから行って習へと云ったよ。」と云ひました。そこでゴーシュもたうとう笑ひ出してしまひました。


☆理(筋道)の詞(言葉)は普く図りごとの講(話)である。
 終(死)の薀(奥義)を運(めぐらせている)。
 照(あまねく光が当たる=平等)を推しはかる。