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吉田松陰は、「宝島」の作者スティーブンスンを虜にした(学校で教えてくれない経済学)

2009-11-03 09:08:35 | 経済学
『知られざる「吉田松陰伝」-「宝島」のスティーブンスンがなぜ?』(よしだみどり著・祥伝社新書)をたまたま読んだ。R.L.スティーブンスンとは、日本でもよく知られている「ジキル博士とハイド氏」や「宝島」を書いた、日本でもお馴染のスコットランドの作家である。

吉田松陰は、いわずもがなであるが、松下村塾を開き、門下生からきら星のごとき多くの人材を輩出させた人である。スティーブンスンは「YOSHIDA・TORAJIRO」という伝記を残している。ヨシダ・トラジロウは吉田松陰の幼名である。

吉田松陰は天保元年(1830)8月4日(旧暦)に萩で生まれた。本名は矩方(のりかた)、号が松陰、寅年生まれだったので“寅之助”と呼ばれ、のちに“虎次郎”となったという。毛利藩の藩士杉百合介の次男、5歳の時、叔父、吉田大介の仮養子になったが大介が早死して吉田家の8代目の当主となった。

スティーブンスンは、1850年11月13日、スコットランドのエディンバラで生まれている。先日、NHK・BSをたまたま見ていたら、エジンバラという町のなりたちや当時の町の生活が、「ジキル博士とハイド氏」にそのまま反映されていると紹介されていた。

吉田松陰のことを誰がスティーブンスンに伝えたのか。東京工業大学の前身、東京職工学校の初代校長として8年勤めた正木退蔵である。正木は安政5年吉田松陰に師事、明治4年イギリスに留学、9年に外国人教師を求めてエディンバラを訪れた際、スティーブンスンに出逢い、師吉田松陰について語った。

スティーブンスンは、松陰の何に感動したのだろうか。著者のよしだみどりさんは、「スティーブンスンが退蔵の話から、もっとも注目していたのは、松陰の感化力のすばらしさと、それを受容できた江戸の一般庶民の潜在的教養の高さであった」と書いている。

よしだみどりさんはさらに続けて、「日本が鎖国を解いた時やってきた外国人は、一般庶民の礼儀正しさ、誠実さ、清潔さ、植字率の高さ、明るい屈託のない笑顔、鍵のいらない暮らしに驚いている」。「スティーブンスンは、『宝島』で得たお金で、北斎の浮世絵を買った。」

「外国の人々から高い評価を得た日本の芸術・文化は、長い日本の歴史の中で培われて、日本人の美質が生み出したものだと、「宝島」の作者が気付かせてくれた」と結んでいる。

今の日本は、円高だ、金融危機だと、なにかと人のせいにしてぼやいている。不平不満から何も生まれまい。先人の残した日本文化に誇りを持って、元気を出そうではないか。(了)

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