【孔子曰く、益者(えきしゃ)三友(さんゆう)、損者(そんしゃ)三友(さんゆう)。直(なおき)を友とし、諒(まこと)を友とし、多聞(たぶん)を友とするは益(えき)なり。便辟(べんぺき)を友とし、善柔(ぜんじゅう)を友とし、便佞(べんねい)を友とするは、損なり】
(孔子がいわれた。有益な友だちが三種、有害な友だちが三種います。正直な人を友だちにし、誠実な人を友だちにし、物知りを友だちにするのは有益です。上辺を繕う人、人の顔色ばかり見る人、口先だけの人を友とするのは損です)
『論語』の楽しさは、学ぶことにありますが、読み方で意味が変ってくるところも、面白いところのひとつです。
そして、孔子が「口先人間」を嫌い、「言行一致」を教える言葉は、ほんとに面白いもので、結構手厳しい教えをしています。
この論語では、益者だけを語るのではなく、損者と比較しながら、よりリアルなイメージができるように書き下しているので、わかりやすいし読みやすいものです。
特に事業をする人にとって、「知れば得する、知らなければ損をする」と言っているようにも聞こえます。
人は多くの人と交わりながら成長していくのですが、その交わった人たちによって、いつしか自分が感化され、それがそれぞれの自分の時代が描かれてくるので、考え方によっては、損者三友が全て悪いのではなく、時には損者三友も必要なのではないかと考えます。
しかし、やはり益者三友と交わることは、自分の人生を豊かにしてくれる要素と思います。
例えば、益者三友の、正直者を友とすることは、心を許して何でも相談できることであり、正直者は正直な答えを出してくれるので、その意見は大いに参考になり、経営に役立ちます。また、正直な人の一言は威厳がありますので、自分も常に正直にあるべきだと痛感させられます。則ち「君子重かざれば威あらず」を目指すわけです。
諒を友とすることは、自分の誠実さを養うことでもあり、誠実な人間と仲良くすることは、その人の誠実さを学ぶことでもあるのですが、自分が困ったときに誠実なる対応をしてくれるので、心身ともに助けられるところがあるものです。
また仮に、誠実な人間が事業で行き詰まろうとも失敗しようとも、その誠実さは認められていますので誰かが助けてくれるものです。故に、誠実は経営の基本とするものであると思うわけで、誠実の友を持つことは、誠実な経営をするための条件ではないかと思います。
多聞を友とするところは、判断に困ったときは特に助けになります。
我々は一生のうちに知らないことのほうが多すぎるので、多聞の友はそれを埋めてくれます。
また多聞の友は賢さがあるので、その知恵を借りることで「賢い経営」をすることもできます。
損者三友は、論語の文章で読むと理論的には分かるのですが、現実社会では意外と損者三友と交わっているような気がします。それは、便辟(べんぺき)を友としたとき、便辟は肝心なときに都合よく逃げてしまうので、友でありながら友としての値打ちがなく、そのときになって慌てたり、焦ったりすることがあります。
また、善柔(ぜんじゅう)の友は意志が軟弱なために、人の顔色を伺いながら迷走しますので、迷いが多すぎて決断が下せないばかりか、自分が下した決断でも責任を回避しようとして、責任問題が発生した場合に、下手するとこちらまで関係ない問題にまで引き込まれることがあり、時間を無駄に使われてしまう可能性があります。
便佞(べんねい)の友は、孔子が最も嫌うタイプの人間と思われますが、言葉が巧みなだけに、凡庸の私にはその本心を知ることができず、便佞の友が発言したことの真理を知ることすら難しいので、言葉を理解するだけで無駄な労力を使ってしまいます。
これらの教えは、誰を友として選ぶかというヒントになるのですが、益者三友は当然のことですが、損者三友が悪いということではありません。
「自分が損者三友になっていないかを判断する必要もある」と読んだほうがいいと思います。
(孔子がいわれた。有益な友だちが三種、有害な友だちが三種います。正直な人を友だちにし、誠実な人を友だちにし、物知りを友だちにするのは有益です。上辺を繕う人、人の顔色ばかり見る人、口先だけの人を友とするのは損です)
『論語』の楽しさは、学ぶことにありますが、読み方で意味が変ってくるところも、面白いところのひとつです。
そして、孔子が「口先人間」を嫌い、「言行一致」を教える言葉は、ほんとに面白いもので、結構手厳しい教えをしています。
この論語では、益者だけを語るのではなく、損者と比較しながら、よりリアルなイメージができるように書き下しているので、わかりやすいし読みやすいものです。
特に事業をする人にとって、「知れば得する、知らなければ損をする」と言っているようにも聞こえます。
人は多くの人と交わりながら成長していくのですが、その交わった人たちによって、いつしか自分が感化され、それがそれぞれの自分の時代が描かれてくるので、考え方によっては、損者三友が全て悪いのではなく、時には損者三友も必要なのではないかと考えます。
しかし、やはり益者三友と交わることは、自分の人生を豊かにしてくれる要素と思います。
例えば、益者三友の、正直者を友とすることは、心を許して何でも相談できることであり、正直者は正直な答えを出してくれるので、その意見は大いに参考になり、経営に役立ちます。また、正直な人の一言は威厳がありますので、自分も常に正直にあるべきだと痛感させられます。則ち「君子重かざれば威あらず」を目指すわけです。
諒を友とすることは、自分の誠実さを養うことでもあり、誠実な人間と仲良くすることは、その人の誠実さを学ぶことでもあるのですが、自分が困ったときに誠実なる対応をしてくれるので、心身ともに助けられるところがあるものです。
また仮に、誠実な人間が事業で行き詰まろうとも失敗しようとも、その誠実さは認められていますので誰かが助けてくれるものです。故に、誠実は経営の基本とするものであると思うわけで、誠実の友を持つことは、誠実な経営をするための条件ではないかと思います。
多聞を友とするところは、判断に困ったときは特に助けになります。
我々は一生のうちに知らないことのほうが多すぎるので、多聞の友はそれを埋めてくれます。
また多聞の友は賢さがあるので、その知恵を借りることで「賢い経営」をすることもできます。
損者三友は、論語の文章で読むと理論的には分かるのですが、現実社会では意外と損者三友と交わっているような気がします。それは、便辟(べんぺき)を友としたとき、便辟は肝心なときに都合よく逃げてしまうので、友でありながら友としての値打ちがなく、そのときになって慌てたり、焦ったりすることがあります。
また、善柔(ぜんじゅう)の友は意志が軟弱なために、人の顔色を伺いながら迷走しますので、迷いが多すぎて決断が下せないばかりか、自分が下した決断でも責任を回避しようとして、責任問題が発生した場合に、下手するとこちらまで関係ない問題にまで引き込まれることがあり、時間を無駄に使われてしまう可能性があります。
便佞(べんねい)の友は、孔子が最も嫌うタイプの人間と思われますが、言葉が巧みなだけに、凡庸の私にはその本心を知ることができず、便佞の友が発言したことの真理を知ることすら難しいので、言葉を理解するだけで無駄な労力を使ってしまいます。
これらの教えは、誰を友として選ぶかというヒントになるのですが、益者三友は当然のことですが、損者三友が悪いということではありません。
「自分が損者三友になっていないかを判断する必要もある」と読んだほうがいいと思います。