「三好権力の城郭」と題して10月15日(火)午後1時30分から金松誠氏、三木市みき歴史資料館 学芸員の講演会が西宮文化協会の十月行事として開かれ楽しみに出かけた。いつものように会場の様子をスケッチした。
吉井良昭当会会長は「本日は西宮とゆかりの深い「越水城」の話を金松誠先生から伺います。三好三人衆のひとり三好長慶は織田信長に先んじて天下人とされるが謎の多い武将としても知られている。西宮神社の祭りの日に戦をして破れたという記録が西宮神社に残っている。金松先生は三木市みき資料館の学芸員で講演会も多い。資料館には文献も豊富である。機会があればお尋ねいただければありがたい。」と冒頭挨拶があった。
「越水城はどこにあったか」の言葉から講演は始まった。会場正面に一枚の地図を映した。「夙川左岸の六甲山地から甲山に延びる台地南東麓に位置する。かって「城山」と呼ばれていた。標高20m。西国街道が越水集落で真南に向きを変え、西宮に至る1,2キロは「札場筋」と呼ばれ、越水城は西宮と深く結びついていたことが分かる。」
「明治29年(1896)12月,大社尋常小学校が新築、移転した。大正9年(1920)、中弥兵衛の別荘になった。門前に「越水城」の石碑が建立されている。昭和30年後半から~40年前年にかけて宅地化が進んだ。今も外見からは城があったかは分かりにくい。」と話を続けた。
次に「越水城」の歴史に話は移った。「永世12年(1515)から翌年にかけて摂津の国の瓦林正頼が築城した。瓦林正頼は元の居城の鷹尾城(芦屋市)を改築する一方、4キロはなれた小山を家城に据えた。正頼は、その合い間に月次連歌を興行、毎夜,古文を嗜み文武両道だった。越水城の「本城」は正頼の居城とし「外城」には息子、与力,神官が住み、余った家人は西宮に住んでいた。」
「永禄11年(1568)、9月に足利義昭と織田信長が上洛し、10月に良昭が将軍に就任した。」との記述が1691年6月のルイス・フロイス師とベルショール・デ・フィレイゲド師あての書簡にある。」と足利義昭政権下の越水城の様子を伝えている。」と紹介された。
越水城の構造に話しは進む。会場に「本城」の略測図を映した。「規模は、東西約105mX南北約150m。一郭のみの単郭構造。東辺が西側に折れながら,北側が狭くなっていく。一郭西辺から北辺にかけて水堀がめぐっていた。現在は埋めたてられており、わずかに痕跡をととどめているのみである」と話した。
三好長慶は「越水城」を拠点とし、京都方面に向って勢力を拡大していく流れのなかで、「芥川城」(高槻市)、「飯盛城」(大東市)、「信貴山城」、「多聞山城」へ勢力を拡大していったと、それぞれの城について歴史、構造が詳しく解説された。金松誠戦士は「越水城は、これらの城郭の原点となった。多聞山城は、礎石建物・瓦ともに石垣も備えている。四重櫓を設けるなど三好権力にとっても重要な城郭であった。」と話し講演を終えられた。
恒例により質問の時間となり会場最前列の一人が手を上げた。「2点伺いたい。①三好長慶が最初の天下人と初めて知った。文武両道だった。②多聞山城は石垣を備え城郭のパイオニアだった。」と質問した。金松先生は「天下人というのは五畿内、大和、河内,和泉、摂津、山城で一般のイメージより狭い範囲を指す。三好長慶が文部両道であったことやパイオニアとのご指摘はイメージに近いと思う。高い石垣を設けたことは、織田信長はいいところを取って安土城築城に生かされた。」と話されお開きとなった。
貴重な機会を用意いただいた西宮文化協会事務局にひたすら感謝である。(了)