思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

生きた公共哲学・その1 公共的自由が健全な社会を生む

2007-01-10 | 恋知(哲学)

いま、伝統尊重や愛国の態度を養うこと、アメリカとの共同軍事行動がとれるように集団的自衛権の規定を見直すこと、それが重要な国策だとして、安部晋三を中心とする保守主義者たちは、日本の市民社会に挑戦状を叩きつけています。

私は、権力も地位もない一市民ですが、真に自分の頭で考える者=恋知(哲学)者として、政治権力者が国家主義のイデオロギーを振りかざすこの事態には、不退転で闘う覚悟です。

『自由をあきらめさせる日本というシステム』で書いた通り、【自由に生きるという責任】を果たすのが言葉の最良の意味での哲学する者=哲学者(自分の頭で考えて、集団同調しない人はみな哲学者)です。人は、国家主義者の国策に従うときに最も醜くなり、哲学的精神や公共的精神から遠くなるのです。

国家主義の政治権力者は、自分の所属する一族(俗に「エリート」と称される)の持つイデオロギーを政治権力を使って、全市民に強要します。ここで「公」と言われることは、エリート一族の「私」でしかありませんが、その「私」の思想を、市民から集めた税金によって運営する権力機構を使って集団同調の圧力をつくりだし、社会の全成員におしつけるのです。

自他の人生のよろこびを広げるための公共哲学は、権力者やエリート族ではない、一人ひとりの「私」を活かすところからしか公=公共は開けないと考えます。これは公共哲学の最も重要な理念です。

「公・公共・私」の三元論というのは一つの方法論であり、公共哲学の本質ではありません。【ほんらい「公」とは市民的な共同利益のことであり、「官」はそれを下支えする市民サービス機関である。現在の日本社会の問題は、政府や官僚制度が個々人から発する市民的な共同利益=「公」を実現するために働いているのではなく、国家主義思想を持つ政治家集団の信念実現という私益や、それぞれの省の集団化した私益を追求しているところにある】と考えてもよいのです。そうすれば、公と私を媒介する公共という三元論で考える必要はなく、公=市民的共同利益を実現しない「官」は、本質次元で存在意味がないことをもっとストレートに言えるわけです。
また、「私」と言ってもプライベートな私生活上の私ではなく、私の意見という時の私は、はじめから一定の公共性をもっています。その公共性の質を高め豊かにしていくことが「公共哲学する」ことだと言えるでしょう。国家主義とは「私」を活かさずに、国家を実体化させ、私を一つの歯車にしてしまう思想のことであり、反・公共思想でしかありません。

民主制社会においては、「公」とはほんらい市民が生み出すものであり、そこでの意見が公論です。政府は、市民が公論を形成するための条件整備をするのが仕事であり、政治権力によって思想や態度を要請するものではありません。公論とは、「私」が考える市民的な共同利益のことであり、市民社会としての国についての「私」の思考です。各自の主観を豊かにしていくためには、形式に囚われない真の自由対話が必要です。それだけが誘導・ヤラセ・タテマエではないほんとうの公論を可能にするのです(公論形成のためには、小学校から「自由対話」の時間を正規の授業とすることが不可欠でしょう)。

社会のさまざまな問題について、自分の赤裸々な心の地点から、日々の生活体験に照らして、自分の頭で考え、それを自由対話によって鍛え、皆と共有できるものにしていくこと。それが公共哲学の営みです。

政府の思想に従うことや、文部科学省の方針に従うことや、学者の言説に従うことは、公共哲学ではありません。哲学とは自己納得につくことであり(自己につくのではなく、自己納得につくことで普遍了解性が開ける)、システム・組織・団体の権威者の考えに従うことで生じる危険を大元から断つ役目も果たします。一人一人の人間が公共哲学することで、はじめて社会は、健全な発展を持つのです。

保守主義・国家主義を掲げる為政者とは、その本質において鋭く対立するのが公共哲学です。こどもや弱い立場にあるふつうの人の利益をその深部で担保する極めて重要な営みだと言えるでしょう。核心は、各自が主体者である、主体者になることです。

武田康弘




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