思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「自己納得」の生と「自我主義」とは鋭く対立するもの

2007-01-12 | 恋知(哲学)

自己納得(腑に落ちる)を原理にするのが恋知(哲学)です。
自己にこだわるのではなく、自己納得をめがけるのです。
自我主義=エゴイズムは、自我の不完全燃焼が生む有毒物です。
人は、欲望が否定され外的な価値を強要されると、自我の成育が止まり、よき「社会人」の仮面をつけた幼児になってしまいます。

自己納得を阻む外側からの要請・命令(それはしばしば躾と称して正当化される)によって育つ人間は、外見がどんなに立派でも、中身は精神的自立のない幼児に過ぎません。
既成社会の枠組みに疑いを持たず、親の言う通りに育つ人、いわゆる『エリート』ほど大人の仮面を付けた幼児です。少し批判されると直ぐガタガタになり、切れたり、自閉したりします。自分に居直る生き方しかできません。

日本社会の上位者に「赤ん坊」が多いのは、彼らの態度が証明しています。
石原慎太郎などもその一人ですが、自分の考え・ロマンに従わない人間を許容できないのです。権力をつかって黙らせようとする彼の言動は、その精神の幼児性を現しています。
新教育基本法=特定の態度を養うことを政府が要請するというのは、個人の公共的自由を原理とする市民社会の原則に反することですが、これを押し通した政治家やそれを作成した学者・官僚なども精神的自立なき幼児にすぎません。

現代の日本は、「ウヨク小児病患者」で溢れていますが、このような現状に対しては、自分の頭で考える営み=自己納得(腑に落ちる)を原理とする哲学する生が何より求められます。「なぜだろう?」「どうしてかな?」という探求、自分自身の頭と心に深く納得がもたらされるように生きること、それが恋知(哲学)の生です。公理に代入し、情報を整理し、記憶するというのではなく、権威者に従うのでもなく、今の自分に固執するのでもありません。深い納得(腑に落ちる)をめがけるのです。この堀りすすめる営みを止めると、人はある特定の考えに縛られ、自我主義に陥ります。自己納得をめがける生き方(開かれた生)と自我主義(閉じた生)の生き方とは正反対なのです。

自我主義=エゴイズムの最悪の形が国家主義(国家エゴイズム)ですが、普遍的価値を目がけない自国主義がどれほどおぞましい現実を生んだのか?思想的かつ公共的反省がない為政者は、社会にとって極めて危険な存在だと言えましょう。

自我主義=エゴイズムを超えるには、自分の心、その赤裸々な姿をしっかり見ることが条件です。自己の欲望の自覚がまず何よりも先に求められます。自分の欲望を肯定できずに「こうあるべきだ」という要請を先立ててしまうと、欲望は成長を止めて幼児的な全能感から抜け出られなくなります。知識を詰め込み、さまざまな技術を習得し、高い地位に就いたとしても、いつまでも幼児的欲望を抱え持つ「大人」にしかなれないのです。日本の「エリート」男性がしばしば妻を母親がわりにするおぞましい光景は、こうして生まれるのでしょう。妻もまたその同伴者、共犯者であれば、出口のない閉じた世界の誕生!です。

自我(内面)が成長するとは、欲望の階段を上ることです。自分だけの得という小さな欲望から、周りの人々皆の利益・公共的な利益を考える大きな得→徳へと向かうのは、自分の心・欲望を肯定するところからしか生まれないのです。子どもの場合で言えば、親や教師が肯定してあげること。それがない子供は「底なしの不幸」です。肯定されると子どもは面白いように自我の成長を始めます。階段を上りだすのです。そのプロセスを飛ばせば、内面は幼児のまま、外見だけが成長する仮面人間になるしかありません。立派な仮面を付けた幼児は、周囲に、社会に、有毒物を撒き散らすおぞましい存在にしかなれません。欲望の自覚・吟味によって自他のよろこびを広げようというのが、恋知(哲学)する生です。

武田康弘




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