思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

竹内芳郎さんとの白熱の討論会 2011.10.16

2011-10-18 | 恋知(哲学)

日曜日(10月16日)に、竹内芳郎さんが主宰する討論塾(討論に参加する塾員は3名、外部の討論者としてわたしたち白樺同人の3名、竹内さんを含めて計7名)に参加しましたが、20年前の大激論の再現となりました。

NHKの羊頭狗肉のような「白熱教室」ではなく、ほんものの白熱教室!です(笑)。

震えるほどの興奮で声を大にし、鍛え上げた第二次言語(理論言語)で自説を主張する竹内さんと、
それを全身で受け返し、ふつうの言葉で現実的に哲学する営み(柳宗悦の「民芸」思想を一般化したわたしの「民知」)に大なる価値を置くわたしの言説(※注を参照)は、
共に実存・人生をかけた営みゆえに、激しくぶつかるのでした。

まず、はじめは、竹内さんがたえず用いる【超越性の原理】という言葉を巡る激論でした。
わたしは、大多数の人にとって「超越性」とは宗教性を意味する言葉であり、それでは了解は得られないと言い、
みなが言うからという「一般的」な正しさに留まらず、より深い考察をめがける対話は「普遍性」の追求と呼ぶべきであり、「超越性」という言い方はよくないと述べました。
竹内さんや欧米人の多くは、「超越性」と「普遍性」を同じような言葉として用いるが、それでは、宗教(超越性)と哲学(普遍性)は重なってしまいマズイと主張したのでした。

わたしは、これからの新しい思考(哲学ならざる哲学)は、人間存在の対等性に基づくみなの哲学、みなの自由対話であると確信し、大なる価値はその営みにあると思っています。狭いエゴに囚われない普遍性のある思考と対話する能力は、誰でもが持つ先験的な(生まれつき持っている)ものだと確信しています。こどもたちと一緒に生きるとよく分かりますが、自分の利害・損得に囚われない自由対話は、「なんでも話せるザックバランな場」をつくれば自然に生じます。

竹内さんも超越性の原理を説明されるときは、「普遍的な」、と言っていますので、そのまま「普遍性(納得の相互性)を求めよう」とされればよいのではないでしょうか? 目がけるのは、世俗からの超越(竹内)ではなく、納得の相互性(武田)であるはずです。

(※注) 自からを反省したり、現実を明晰に意識化しようとして話される言葉は、たとえ書き言葉ではなくとも第二次言語的性格を持ちますが、わたしは、それを第二次言語として自立させる方向に鍛えるのではなく、生活世界に通用する言葉に深めていく努力が必要だと考えています。そのためには日々の体験を省察する営みが必須です。

以下は、参加された内田卓志さんからのメールの一部です。

「竹内先生のいわれている、超越性原理は、非世俗的な共通了解性(普遍性)を持ったものと考えます。ところが、武田先生は、そのような非世俗ではなく、民知や民芸のように世俗の中から共通了解性を(普遍性)を探求する姿勢のように思います。だから超越性とは、呼ばないのでしょう。結論は、同じなのかもしれませんが、そこへいたる方法が違いますね。竹内先生は、世俗より人類の生きた普遍宗教のような知の累積の方が、批判原理としては有効と考えるのでしょう。」


次は、「具体的経験の哲学」をめぐる白熱ですが、それはまた明日のおたのしみにします。

※写真は、討論会終了後に「サンシャイン神奈川」の玄関前で撮ったもの



コメント (2)
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