思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「内」からではなく「外」を先立てる--日本の根源問題

2011-11-03 | 恋知(哲学)

従来の日本社会のありよう・日本人の生き方は、
「外」を気にし、「外」が中心、「外」が先。
外面・型が優先する文化です。

これでは、どう転んでも「不幸」です。幸福をつくらない生き方です。

なによりも大切なのは、心・身体・頭の「内」から発し、内なる世界を豊かにする生き方です。

まず、内部の筋肉を使う【身体】の動かし方を実践すること。
外の筋肉中心で身体を動かすのは、「外」=カタチを気にするという暗黙の想念をもっているからですが、歩き方にはじまり、日常の動作、スポーツにおける動き、みな外の筋肉中心では、身体を動かす楽しさ・愉悦感は得られませんし、ヘタクソです。
手や足を動かすのも、身体全体を使って、身体の中心からの動きを心がけるのです。
内から、全身で。

【心】もそう、人にどう思われるか、ではなく、
「私」の心=内面から発する声を聴こうとする態度をもつことです。
この基本がないと、全てはウソの世界になりますから、結局、ウソを正当化するリクツを山のように積み上げる作業が人生だ、ということになります。
「私」の心から発する内発的な文化の逆が「型」を優先した様式文化ですが、ここからうまれる儀式的な生※は、楽しさ、うれしさ、明るさ、のびやかさを育てず、「生きる悦び」を抑圧します(※天皇家の宗教儀式中心の生活はその象徴ですので、そこに生きる人はとても気の毒です)。

【頭】の使い方もそうです。「勉強とは受験勉強のこと」というまでに堕落した「知」は、「外」の最たるもの。意味の追求ではなく、単なる事実学の暗記勉強は外付けの知そのものですが、この異常性=知の退廃に気づいている人が少ないのは困った事態です。みんな「優秀」なプログラム人間になって、昆虫化してしまいます。答が書いてある客観知は、知の手段でしかないのですが、これが目的化されてしまい、ほんらいの知の目的である「主観性の知」の育成がありません(これについては、参議院発行の『立法と調査』にあるわたしの論文『キャリアシステムを支える歪んだ想念』をご参照ください)。

「パターンと暗記」=外なる知ではなく、自分の頭を使う「意味の探求」=内なる知を中心・土台に据えないと、知は、人間の生を豊かにするのではなく、却って人間性を抑圧する装置になってしまいます。

心・身体・頭   内からの、内なる生をはじめたい。新しい生き方と文化をつくろうではありませんか。


武田康弘

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