思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

竹内哲学と柳思想へのわたしの見方ーー「理論の哲学」から「体験の哲学」への深化のために。

2011-11-25 | 恋知(哲学)

竹内哲学と柳思想へのわたしの見方               


かつてわたしは、サルトル、メルロー=ポンティらの翻訳者+解説者で、独自の思想をもつ哲学者の竹内芳郎さんに師事し、深く交流を持ちました。20年以上前のことですが、竹内さんの全著作を読み、主要な哲学作品のレジュメも作成し、『討論塾』の立ち上げ時にはその中心者となりました。

また、『白樺文学館』(わたしが主宰する「哲学研究会」の熱心な参加者であった佐野力さんがお金を出し、わたしが全コンセプトを作成して創設、今は我孫子市が運営)をつくるときに集中的に取り組んだのが、柳宗悦の思想です。10年以上前のことですが、柳宗悦全集を購入し、鶴見俊輔さんや水尾比呂志さんらの解説、松橋桂子さんの『柳兼子伝』、また最近では中見真理さんの『柳宗悦』にも学びながら、その思想の核心を探る努力をしてきました。

わたしは、彼らの語る思想に感心してよきものを得ましたが、同時に異和も覚えました。端的に言えば、彼らの思想は、イデオロギーの次元における「優秀さ」以上のものを持たず、現実に生きるわたしの心身にまでは届かない、そんな風に思えたのです。

民芸運動を支える実践的な柳宗悦の思想―直観力に優れた彼の哲学思想といえども、観念性が強く、ビビットな現実感覚から遠く、真のリアリティを持たないのです。
現代に生きる竹内芳郎さんの思想も、「具体的経験」の哲学を謳い、現実問題に応答することを強く意識しながら、やはりその明晰さは言語世界に留まり、広がりを持ちません。固い論理に支配され、生々しい現実を支える豊かさ、強さ、柔軟性とは遠いのです。

お二人は時代も立場も異なりますが、評論家としての思想家や大学内の哲学教師とはまったく比較にならぬほど優れた思想を展開しました。しかし、わたしはそこに書物=活字に価値を置く哲学の限界を感じてきたのです。彼らはイマジネーションの広大な世界に着目しながらも結局は言語中心主義から脱却できず、「理論」としての哲学が優先し、「体験」としての哲学は中途半端に終わりました。その原因をわたしは、自らがその哲学の核とした概念に対して【不徹底】であるからだと見ています。そのために「哲学の原理」の提示とはならず、「イデオロギーとしての思想」の次元に留まらざるを得なかったのです。

竹内芳郎さんの哲学

竹内芳郎さんは、自身の哲学の方法的装置として「具体的経験」を掲げてきましたが、それは、先のブログに記した通り、間接経験と直接経験との違いに無自覚な経験概念でした。「具体的経験」とは、あくまでも「マルクス主義という極めて客観主義的な理論体系と切り結ぶ」(岩波書店刊『具体的経験の哲学』のはじめにvi)ための方法だとされ、哲学の原理ではありませんでした。

「具体的経験」は、わたしのように直接経験にまで還元することで哲学の原理になりうるのですが、還元が不十分な為に「原理」とはならず、「理論を賦活化させるための装置」として位置づけられました。この不徹底さが、竹内さんの哲学を一思想(イデオロギー)の次元に留めることになってしまったと言えます。

「今は受け入れられなくても本=理論書が後世に残れば」、という竹内さんの言い方は、「生きられる現在」以上の価値を理論に与えるものですが、それが、日常言語とは異なる第二次言語(理論)としての強い自立を目がける努力となりました。その姿勢から「知識人と大衆」とか「大学人と一般人」という二分法が生じ、両者の不断の交流をめざすべきという主張が出てきますが、こういう二分法は現代ではリアリティを欠くと同時に、よろこびが広がる生き方や民が主役の社会をつくるためにはプラスになりません。

わたしは、人間の対等性(自由と平等)を基盤とする民主的な倫理思想がなければ、哲学(善美に憧れる人間の生)は「原理」を持てず、ただのイデオロギーに陥ると考えていますが、それでは弱い思想にしかならず、人間の生の現実を輝かせ、支える力を持ちません。わたしが具体的経験を直接経験にまで還元する哲学を提唱するのは、哲学を原理にもたらすためなのです。『体験(明証性)から出発する哲学――「具体的経験の哲学」批判Ⅱ――』をぜひご覧ください。

わたしには、サルトルの過ち(自身の実存主義という思想を、マルクス主義を賦活化させる寄生的理論と規定してしまった)を竹内さんは後追いしているように思えます。具体的経験という貴重な概念を、「理論を賦活化させるための装置」にしたのでは、具体的経験(生きられている今の経験)は光を失ってしまいます。サルトルも竹内さんも自らの中心テーゼに不徹底であるがゆえに、日々の「体験」を輝かす「民」の哲学にまで進むことが出来ず、知識人の優越という次元に留まったのです。厳しい言い方をすれば、次に述べる柳宗悦の思想と共に彼らの哲学は、現実世界への「対抗イデオロギー」としての役割を果たすのみで、「私」の生を支える「哲学の原理」にまで深まることがなかったと言えます。

柳宗悦の思想

では、次に柳宗悦についてです。
柳は、哲学徒(東大哲学科)としての出発の前、学習院の中等科のころから『自己信頼』等のエマソンの著作に親しんでいた早熟の若者でした。21歳で同人誌『白樺』の創刊に参加し、白樺運動における「哲学と思想の中心者」となりました。彼は、声楽家の兼子(かねこ)と結婚してすぐ伯父の加納治五郎の勧めで我孫子に移り住むと、志賀直哉、武者小路実篤、バーナード・リーチを集め、我孫子を白樺派の拠点としたのです。

柳の思想の原点は、24歳のときに『白樺』に載せた論文に明瞭です。
「自己をおいて哲学には一切の出発がない。・・自己を離れ自己の要求をおいて、哲学は何らの力ももたらさない。あらゆる特殊性を排除する客観的態度は許されない。個性は哲学にとって永遠に絶えることのない神前の燈火である。」

柳自身の生き方について見れば、その後の様々な活動による変化の中でも、この原点を踏み外すことはなかったと言えます。彼は、外なる思想体系ではなく、内からの衝動=内発性を重んじ、それを自身の原理とし、実践的思想家として「民芸」運動を中心に様々な活動を行いました。しかし、その思想を生きたのは知識人としての彼のみでした。

民芸運動における知識人と工人については、優れた知識人による工人の指導という見方で、工人と個人作家(知識人)を二項対立させた上で、互いの学び合いを主張したに過ぎません(「民衆は方向性はないが、無心で篤信である。かたや知識人は、方向性はあるが、無心になりきれない」)。また、社会変革の問題でも、民衆を従順で受動的な存在と位置づけ、主体的な存在とはせず、民衆自身が哲学者(哲学する者)・社会的実践者となっていくことには否定的でした。

個性・内発性を自身の哲学の原理としていた柳が、なぜ知識人以外の民衆の個性・内発性を否定してしまったのか? 
このエリート主義をもたらしたのは、【内から、という原理の不徹底】にあると思います。この不徹底ゆえに、民芸運動は、民主主義とは遠い啓蒙主義に留まりました。自らの【内】から(体験=直観)という座標軸を民衆一人ひとりのものとする哲学原理をつくることに失敗したのは、柳が西洋とは異なる日本文化の独自性を見出したいという強い欲求を持っていたからです。

日本民族の独自性=【民族】という視点は、内から、という原理と衝突します。一人ひとりのありのままの存在仕方につくのではなく、外なる基準=超越項(柳の場合、民族という視点)から見るというのは、内からの哲学ではなく、外なる宗教的思想に陥ります。
一般に、民族、国家、王(天皇)、神、他者、理論・・・・なんらかの【超越項】を置き、そこから自分や世界をみるという思想は、一つのイデオロギー=主義=宗教に陥り、「私」の存在から出発し、自らの体験の明証性を原理とする哲学とはなりません。
柳は、正しく「客観主義」を否定し、「主観性の知」につく哲学を宣言しながらも、自身と民衆の「内」からの見方に徹底することができなかったゆえに、さまざまな外なる基準(民族、神、地方性・・という超越項)を導入せざるを得なくなったのです。

人間存在の対等性という民主的倫理につき、一人ひとりの存在を超えた絶対者を認めず、各自が座標軸となるという内からの哲学の原理を徹底すれば、「超越項」を置くという弱い思想≒逃避的思考≒エリート主義≒超越哲学というものは、知識人を中心とした人間の不安感情が生んだ幻影でしかないことが分かります。内から生きる、という恋知(哲学)の生は、理論ではなく日々の実践であることが了解できれば、無用な理窟の山は消え、柳が求めた「ふつう」(健康なエネルギーに溢れた生、日常を大切にする生、無心・自然な生)がやってくるはずです。

敷衍して言えば、
理論家とか哲学者と呼ばれる人が書いた本を読み、それを立脚点にして自分の人生や社会のありようを考えるという逆立ちから解放されなければ、「私」を座標軸とする自分自身の人生は始まらないはずです。ほんらい、書物の良否や他者の言説は「私」の日々の生活世界の経験から感じ・思い・考えることを基に評価すべきことなのですが、どうもそうはなっていません。
どのような書物であれ、書物の思想が基準になって「私」の生活世界を律するのでは逆立ちなのですが、「主観性の知」の育成がない学校教育のために、人生や社会のありようまで権威者が示す正解があると思い込まされています。困ったことに、まだまだ「哲学理論の真理」に従う!?という逆立ちした想念が漂っています。哲学も「東大やハーバード大の先生が偉い」では、「私」からはじまる優れた生は永久に始まりませんし、民主的倫理も成立しません。

超越項を置かず、内からの、という【日々の体験の省察に基づく明証性の哲学】を原理とする人生を歩みたい、わたしはそう思い、生活しています。けだし、哲学とは、知識の獲得や理論の構築ではなく、深い納得を目がけよく生きようと欲すること=実践なのですから。
11月3日のグログーー「内」からではなく「外」を先立てる--日本の根源問題もぜひご覧ください。


武田康弘


ーーーーーーーーーーーーーーーーー

以下はコメント欄です。 

素敵です。親鸞の教えにも通じます。 (清水光子)
2011-12-01 10:58:35

武田先生の芯はますますしっかりと太くなって素敵です。健康に恵まれて回りの人たちの生き方を助けて下さい!
80を過ぎた私も生きて居ることを苦にせず。どう生きれば善いか考えてゆきます。
美しい事を、ものを愛し、真実を求めるーずっとそうしてきたつもりなのですが、 「体験経験からの哲学」と先生がおっしゃると、考えることに力が出ます。
年をとりながら幼稚ですが、おっしゃることについていきます。
携帯だと乱文でヒドくなりますが ご判読下さい。清水

大事な事が落ちました 学識がある 知識人である事を問わない。恋知の哲学は仏教の親鸞の修行したり学識がなくても救われる 教えにも通じますね。清水
ーーーーーーーーーーーーーーーー

感謝です。 (武田康弘)
2011-12-01 11:56:41

清水さん
励みになるコメント、とても感謝です。

もしも、親鸞が宗教世界で成し得たことを哲学世界(内からのよき生き方の追求)で出来れば、日本文化、否人類の文明が変わりますね。
外ではなく、内から、内発的に、の考え方・生き方は、幸福と世界平和を結果するはずです。
ーーーーーーーーーーーーーーーー

出色です。びっくりします。 (内田卓志)
2011-12-02 20:52:54

このブログー
柳・竹内批判から武田哲学の展開は、誠に出色です。
私は、柳さんや竹内さんに、先生ほど厳しい批判は持っていませんが。
よくよく考えてみます。
先生の肉体的そして、思想的体力には、びっくりします。
ーーーーーーーーーーーーーーーー

理論としての哲学ではなく。 (武田康弘)
2011-12-03 13:42:49

内田さん
率直なコメント、ありがとう。

わたしは、師であった竹内芳郎さんから多くを得ましたし、その業績を高く評価しています。
また、柳宗悦の種々の仕事もとても有意義なものと見ています。

わたしの批判は、哲学を「理論」(活字)の次元で捉える地平を超えるためのものです。一人ひとりの生活世界の「体験」に支えられた明証性の世界を有意義なものとするために、彼らの限界を超えなくてはならない、と思うのです。

厳禁の精神による遵法主義に囚われては人間精神は死んでしまいますが、
理論言語に囚われて化石化してもお終いです。この二つの硬直から自由になり、輝き、伸びやかさ、悦び、柔軟性、不屈・・・の生のためには、従来の言語中心主義の哲学ではなく、ふつうの人の生活世界から始まり、それを豊饒化させる「内からの生」を支える考え方=新たな哲学の実践が必要だ、と考えるのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

竹内芳郎氏に会って感じたこと (古林 治)
2011-12-03 14:36:28

竹内芳郎氏は極めて優れた哲学の学者、柳宗悦は突出した思想家でした。このことは間違いないものと思います。

その二人の限界について語ることは、哲学・思想の核心に触れる=より善い生の追求につながることでもあるでしょう。

幸運にも私自身、タケセンさんに同行して【討論塾】に参加し、竹内氏に直接会って話をすることができたので、その問題の核心に生々しく触れることができました。

切れ味鋭く鍛え上げた竹内氏の思考には目を見開かされ、論理として反論の余地もないものでした。が、その論理の秀逸さと共に、ある種の違和感もついて回りました。

議論の場から立ち昇る雰囲気には、思考そのものを鍛え上げ永遠のものとする強い意思が感じられ、言葉と論理による強固な構築物をめがけているという様相でした。同時に、その強固な世界に私たちが生きる生々しい現実世界をはめ込もうとするような違和、私たちの日常世界を別世界から俯瞰するような違和を私は感じたのです。

誤解を恐れずにもっと単刀直入にいえば、
『正しい優れた世界観(思想)を論理的に構築することは可能であり、その正しい思想によって誤った現実を正していかねばならない。』
とする観念への違和です。

もちろん、竹内氏自身の思想はそうした観念を徹底して排除するものです。それにもかかわらず、そうした(言語至上主義とか真理主義、超越といった)発想を言葉上では否定しながら、そのような思想に陥っているように見えます。生活の足場を生々しい現実ではなく、言語と論理によって構成される間接経験の世界に置けば、どうしても現実世界(直接経験の世界)を俯瞰する立場に自身を追い込んでしまうのでしょう。この『思考の転倒』を孕む思想は、現実を変えていくだけの(多くの人々を納得させる)力には成り得ないし、自身を孤独な生に追い込むほかない、と私には思えます。

竹内氏と実際に会って話をしてみて、強くそのことを感じました。
これは大変厄介な陥穽です。哲学や思想を生業にし、そこで自己実現をめがけようとすれば、直接経験は限りなく希薄になり、哲学や思想(書かれたもの)がその人の人生にとって最も重要で価値あるものになりましょう。生々しい現実よりも【書かれたもの】を現実とは別の高次元のものと看做すことになります。

哲学、思想を生業としないまでも、それに関心を持ち、熱心に本を読む人々にも同じ陥穽が待ち構えています。
よく考えてみると、実は、私たちの周りでもこの落とし穴にはまっている人々が多くいることに気づきます。直接経験が希薄なまま知識や学問を頼りに仕事をする人々、それに知識や学知を詰め込む受験競争下の子供たちの多くがすでに同様の病にとりつかれているように思います。

この落とし穴、穴にはまるだけでなく、啓蒙的優越意識や無自覚なエリート意識を醸成する源泉にもなっているから要注意ですね。

生々しい現実と思想の関係をひっくり返してはなりません。現実に根ざした生のなかに思想を位置づけなければいけないのです。
竹内さんと会って改めて私はそう確信しました。


柳宗悦についても触れようと思ったのですが、長くなるのでやめておきます(笑)。
一言、中見真理さんの『柳宗悦 時代と思想』に触れると、やはり同様の『思考の転倒』があるように感じました。なるほど、たしかに大変な力作だと思いますし、わかりにくい柳理解にとても役に立ちました。

が、柳宗悦の思想を内的必然性として捉えるのではなく、さまざまな思想家の思想(書かれたもの)の影響について書かれているので、固く皮相的な印象を拭えません。
むしろ、極めて優れた声楽家であり、主婦であり、母親でもあり、生々しい現実を足場にして生き抜いた柳兼子という存在が、柳宗悦にどのような影響を与えたのか、私は大いに気になります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

白樺哲学宣言 (武田康弘)
2011-12-04 10:58:42

古林さん

わたしは、「この二人の限界について語ることは、哲学・思想の核心に触れる=より善い生の追求につながる」
と考えて、わたしの考える【体験としての哲学】の芯を書いたのですが、
それは、【白樺哲学宣言】でもあります。
人間はみな主体者(=哲学者)であり、他者に誘導される存在であってはなりません。
「理論」としての哲学は前時代の遺物であり、使いものになりません。生活世界における「体験=直観」としての哲学は、実存として生きることを支えますが、同時に民主主義の土台でもあります。
共に!
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

哲学するって (染谷裕太)
2011-12-04 08:35:08

タケセンの塾で哲学書を読んでいた時、学者の方との討論会で話を聞いていた時、度々「哲学ってもっと感覚的なんじゃないかなぁ」と感じることがありました。

哲学者と呼ばれる人達の言うことには、やたらと理屈が多く、新しい言葉や概念が多く出てきます。でも、その言葉って本当に使う必要が
あるのか?そんな概念をつくる必要があるのか?
それはそれで言ってることは分かるけど、何か僕にはその言葉を使いたい、理論をつくりたいという気持ちが先にあるように感じました。

でも哲学することって、本当は理屈ではなくて、もっともっと単純に、何かを見るときに漠然と見るのでなく、目玉をひんむいてよーく見るとか、聞くときは耳の穴をかっぽじってよーく聞くとか、大きい声でハキハキ喋るとか、そういったことだと思います。

難しい理屈や言葉の前にもっとシンプルで、動物的で、感情ある人間がいると思います。生(なま)の現実で感じ、想ったことを出発点に、自然に、順序よく語っていけば、山のような理屈はいらないし、内容は自然と論理性、というか説得力が出てくると思います。論理、理論というのは先にある、先に求めるものではなく、結果として生まれてくるものだというのが僕の感覚です。

何ものも先立てず、地位も名誉も肩書きも捨て去った裸の人間=「私」という存在から素直に、そのまま、見て、聞いて、感じる。その表出として言葉があるのだと思います。

そして、だから子どもは哲学者なんだと思います。大人が縛られている常識や理屈なんか軽々飛び越えて生きる実感から喋ります。大人が聞かれたくないような、急所をズバッと突いてきます。本当は何も考えていない、何も分かっていないことがバレてしまう急所を恐ろしく的確に。

僕もそんな良い意味で子どものような大人になりたいと思っていますが・・・まだまだ道のりは遠い・・・です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

自分の価値観と生き方を自覚する (青木里佳)
2011-12-04 11:26:55

哲学や難しい言葉はわかりませんが、「自らの【内】から(体験)・・・」とい
う考え方には賛成です。

私も含めてですが、現実的に内からの体験や思想で生きる人は少ないのではないのでしょうか。

家庭、学校、職場でも「外の価値観」を基準にして、それが当たり前として生活している人がほとんどだと思います。まず「外の価値観」を基準にして生きている(生きてきた)と自覚することが第一ステップですよね。これはそんなに難しくないです。

難しいのは、第二ステップである「外の価値観」で生きてきたことを自覚した上で、自分で意識して「変えていく=内側の世界や体験を深く掘り下げていく」ことです。

ここで人の生き方が分かれるのではないかと思います。実践する人と、実践しない人。実践する場合、日々の生活の中でこの作業を続けて
いかないといけないので、慣れるまで、コツをつかむまで苦しいです。苦しいというのはそれだけ今まで「外の価値観」で生きてきたから、その癖が染み付いてしまっているからとも言えますが。

そして文化的にも集団同調が求められている社会で生きていると、「私は私」と自分に対する誇りや尊重、個性が育ちにくいので、外側にある価値観や周りに合わせてしまうことで「私」を抑え(極端に言えば「私」を殺し)、内側の世界と体験が育たない状況になってしまうのではないのでしょうか。自分より他者、自分が本当に感じていること・やりたいことよりも世間や社会が認めている・推奨していることを優先していく。そうすると「外の価値観」を基準にした生き方になってしまうんだと思います。

大事なのは自分の価値観と生き方を自覚する、外→内からへと変えていくことですね。
------------------------------------------------

染谷さん、青木さん (武田康弘)
2011-12-04 12:46:05

染谷さん
自分の感じ、思う、ところからの自分の考え、いいですね。
いつまでも哲学書の類にひっかかっていないで、
日々の生活を意味深く、内容の濃いものにするために、自ら哲学することが必要ですよね。
哲学書読みの趣味としてではなく、生活の豊饒化のために自分の頭で考える=哲学しなければ、哲学は無用の長物どころか、人間精神を化石化するアイテムにしかなりませんものね。
ついでに言えば、
サンデル現象=ズレた面白例を持ち出して本質論議にすり替える「言論ショー」が流行る日米の知の退廃は、自ら哲学する実践がないことの証拠です。

青木さん
外なる価値意識に縛られた心身から、
内なる声を聴き、内からの生をめがける実践に取り組んでいる様子がよく分かります。素晴らしいことですね。焦らずにゆっくり進んで下さい。
日本人が幸福になれない元凶は、内からの、内発的な生が歩めず、主観性の力を豊かにすることを知らないからですが、それに気づいた人がだんだんと増えています。わが日本という国の、様式による意識の支配、生身の人間が形式の中で殺される非人間的な文化を変えるのは、個々人の生き方(外からではなく内から)です。共に!



コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする