「現在も大多数の日本人が何かのきっかけがあるたびに、アジア差別的な言辞を弄しながらもそれがもたらす精神的・身体的傷口や苦痛に対しては、ほとんど無頓着・非関与であるというのも、「倣欧侵亜」(欧米にものまねならったうえでのアジアへの侵略)的なメンタリティが未だに清算されていないから、というのがわたしの生活体験的実感です。日本人の意識内在的な原風景には、常にはるか遠くて高い彼方に実在する他者としてのヨーロッパへとアメリカへの憧憬と従属、そして時代と状況の成り行きに応じて、勝手に同化したり排斥したりする都合上の他者でしかないアジアに対する横柄と傲慢が同居しています。」(金泰昌キムテチャン著『公共哲学を語り合う』東京大学出版会刊)
わたしは、【公共】についての考え方で金泰昌さんとは厳しく論議を交わした者であり、彼の「公共哲学」にはまったく与しませんが、上記の横柄と傲慢という日本人のメンタリティの指摘は、まことに正しいと思います。われわれ日本人は、長い間に刷り込まれている「倣欧侵亜」的な発想(それは身体化されてしまっている)を自覚し、深く反省しなければ、未来は開けないでしょう。対等で内容的な相互性が希薄で、他者を利用可能性として見る人であっては、友情も愛情もみな見せかけだけのウソに過ぎません。ぞっとするほどイヤラシイことです。
武田康弘